壬生綱房 Mibu Tsunafusa

壬生綱房壬生綱房 Mibu Tsunafusa(1533年-1590年)

父である壬生綱重が鹿沼城を任されるようになってからは、綱房は壬生城主となった。永正6年には1509年に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。永正9年に起きた宇都宮錯乱の時も父に従い成綱方だったと思われる。永正17年(1520年)には、浄宝寺縄吊し合戦で那須氏の居城である山田城を謀略で落とすなどの功績を上げている。

大永3年(1523年)に皆川氏との間で起こった河原田合戦では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対しており宇都宮軍の退路を遮断したという。4同年、主君.宇都宮忠綱が結城政朝との対立で猿山合戦で敗北し、成綱の三男である芳賀興綱が宇都宮城を乗っ取り、主君.宇都宮忠綱を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。その後は芳賀高経.芳賀高孝ら反忠綱派によって擁立され、宇都宮宗家の家督と継いだ宇都宮興綱に仕えている。

この頃から野心をむき出しにしており、忠綱没後、綱房は日光山を掌握しようと、二男.座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。日光山岳の宿の改修や鹿沼の今宮権現の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。

反忠綱派によって擁立された興綱は当時10歳と若年であり、芳賀高経は興綱を傀儡として扱い宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて瞬く間に権力を増大化させていき、興綱の代に宿老の地位を固めた。

興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は芳賀高経とともに興綱と対立。一度は宇都宮家臣の赤埴氏.戸祭氏らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。天文元年(1532年)に芳賀高経、芳賀高孝と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、強制的に隠居させ、今度は成綱の二男である宇都宮俊綱を擁立する。さらに天文5年(1536年)には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。

また、綱房は天文元年(1532年)に鹿沼城の大改築を行い、城を山城から平山城とした。

天文期の頃になると綱房の権力の増大化によって壬生氏の地位は芳賀氏、益子氏に次ぐ相当なものになっていた。壬生領に隣接している小山氏の当主小山高朝が白河結城氏の結城義綱に心苦しいと書状を送ったほどであったという。また、同時期に綱房に対して危機感を抱いた芳賀高経と不和になる。綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主宇都宮俊綱に接近し高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が宇都宮氏と敵対している小山氏と関係を持ち始めたことをきっかけに天文10年(1541年)、古河公方足利晴氏.小田政治.佐竹義篤らとともにこれを滅ぼしている。

天文11年(1542年)、綱房の二男.座禅院昌膳は、壬生氏の力が日光山に及びすぎることに不満を抱き、久野村に隠居した。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男の壬生綱雄に攻めさせ、これを滅ぼしたという。

高経がいなくなったことで綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。

天文18年(1549年)喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱が戦死すると混乱に乗じて宇都宮城を占拠した。綱房は那須氏と和議し芳賀高経の子.芳賀高照を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。

綱房は壬生城に嫡男の壬生綱雄を置き、今まで居城だった鹿沼城に弟の壬生徳雪斎を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子伊勢寿丸を保護している芳賀高定のみとなった。

天文20年(1551年)、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男の壬生綱雄を総大将にして出陣させた。この合戦には弟の壬生徳雪斎も従軍していたという。乗っ取られる前の宇都宮氏に匹敵する3000もの兵を動員し、大勝利する。この大戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけることができた。

綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する多功氏、今泉氏、芳賀氏を牽制した。塩谷氏はどちらにもつかず中立な立場をとった。

天文24年(1555年)芳賀高照が芳賀高定の謀略によって殺された後に綱房は急死した(芳賀高定による謀殺とも)。綱房没後は嫡男綱雄が宇都宮城に入った。また、弘治3年(1557年)には、綱雄が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。

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