毛受勝照 Menju Katsuteru

毛受勝照 Menju Katsuteru毛受勝照 Menju Katsuteru(1558年-1583年)

柴田勝家の家臣。諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある4。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった4

尾張国春日井郡稲葉村の人。新居城4主水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。

12歳の頃より織田氏の家臣.柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった。

17歳の時、伊勢長島攻め(天正2年(1574年))に従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印の奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った。

勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御弊」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄.茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田勝家をなり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%8F%97%E5%8B%9D%E7%85%A7