松平忠昌 Matsudaira Tadamasa

松平忠昌 Matsudaira Tadamasa松平忠昌 Matsudaira Tadamasa(1598年-1645年)

父:結城秀康の次男、母:清涼院(岡山。秀康家臣中川一茂の娘)、養母:英勝院(徳川家康側室)、正室:紀州藩主浅野幸長の娘.花姫、継室:従一位准大臣広橋兼賢(公家)の娘.道姫(光通母)、側室:白石氏(幾久。昌勝母)、浦上氏(昌親母);幼名は虎松、虎之助,受德川秀忠偏諱「忠」字,名為忠昌,法名は隆芳院殿郭翁貞真大居士。

5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。慶長12年(1607年)、祖父の徳川家康、叔父の徳川秀忠に謁見し、秀忠の側近くで養育された。叔父にあたる徳川頼房と同じく、慶長12年(1607年)に家康側室の英勝院の猶子となり、同年11月、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。

武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は徳川秀忠の側で随行した。翌年の慶長20年(1615年)が近づく頃、徳川幕府と大坂の豊臣氏との最終対決が近づく気配を感じると、「年齢が若いために出陣許可が下りない」可能性を考慮し、直前の正月に急いで元服を済ませ、大人として扱われることを望んだ。望み通り、秀忠より偏諱(「忠」の字)を賜って伊予守忠昌と名乗って元服し、1月8日従五位下侍従に叙任した。2月には従四位下となる。出陣の許可を得ると、直後の夏の陣では他の兄弟と共に、兄の松平忠直軍の一角を占めて出陣した。夏の陣の際は、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。

この大坂の役の活躍により、同年末に常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の跡、下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封されている。

元和9年(1623年)、2代将軍秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があったなどとされる兄.松平忠直が「不行跡」を理由に配流処分となった。その後幕命により、弟である忠昌が藩領のうち、越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎」(幕府の命により忠直家臣団より幕府が選抜した)4を継承し、高田から随従の300騎を併せて新たに福井藩の家臣団を形成し、藩領を相続した。当初、甥で忠直の嫡子.仙千代(後の松平光長)の行く末を思いやった忠昌は相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は本家を相続することとなった。のち仙千代には新たに越後高田に26万石が与えられた。444寛永3年(1626年)8月19日に正四位下参議となる。

寛永11年(1634年)第3代将軍徳川家光が大軍を率いて上洛した際、忠昌も上洛した。同年、領地朱印状を拝領し、それによれば同年8月時点での所領は50万5,280石である。のち、寛永14年(1637年)、弟の直良の越前木本藩から越前勝山藩への移転に伴い、幕府より木本藩2万5,000石の旧領のうち2万石を加増される4。正保元年(1644年)には、同じく直良が勝山3万5,000石から越前大野藩5万石へ移った後の勝山3万5,000石を幕府より「預領」として預けられた。

寛永14年(1637年)の島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称する藩士12人を派遣した。寛永20年(1643年)異国船改めのため三国湊に番所を建てる。

正保2年(1645年)8月1日、江戸の霊岸島の中屋敷にて死亡した。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8C