牧野康成 Makino Yasunari

牧野康成 Makino Yasunari牧野康成 Makino Yasunari(1555年-1609年)

永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父.成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族牧野某(出羽守.成元また成真とも、同名保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した4。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として1両年(2年間)身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。

徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、また家康の指示により天正年間は諏訪原城(遠江国).興国寺城(駿河国).柾戸城(伊豆国).長窪城(駿河国)と諸城を在番し、家康の東海道平定戦に寄与した。その功績により、天正16年(1588年)4月までに従五位下右馬允に叙位.任官、この時の口宣で清和源氏を称姓した44。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、上野国大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した4

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、これが城攻めにまで発展した。しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗であったため、康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる44

その後、慶長9年(1604年)に徳川家光が誕生したことによる恩赦で処分が解かれ、大胡藩2万石に戻った。ただしこの間、お取り潰しの状態ではなかった。この時より公事は、嫡子.忠成にまかせて大胡に閑居し、そのまま1609年(慶長14年)12月死去した。法名は月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%BA%B7%E6%88%90_(%E5%A4%A7%E8%83%A1%E8%97%A9%E4%B8%BB)