香宗我部親泰 Kousokabe Chikayasu

香宗我部親泰 Kousokabe Chikayasu香宗我部親泰 Kousokabe Chikayasu(1543年-1593年)

”土佐の熊”として恐れられた国親は、貪欲なまでに侵略を重ね、同族出の香宗我部家はこの圧力に耐えかねた結果、香宗我部家の陰の実力者.香宗我部親秀の英断により、親泰の養子縁組という形が成立したのであった。

しかし、この結果に納得いかない香宗我部家当主.香宗我部秀通はこの養子縁組を強硬に反対。最後には、香宗我部家の内紛に発展することを恐れた親秀によって、秀通は刺殺される形で事態は収拾する。

このような経緯で香宗我部家へ養子として乗り込んだ親泰は、動揺する家臣団の統率や香宗我部家の陰の実力者.親秀への配慮など前途多難な家中運営を行っていった。

四国の英雄.長宗我部元親の実弟だけあって、親泰の才覚は長宗我部家臣団の中でも、ずば抜けた才覚を見せ、長宗我部家と長年にわたって死闘を繰り広げてきた安芸城の安芸氏を攻め滅ぼす抜群の軍功を飾っている。この実弟.親泰の軍功を賞した元親は陥落した安芸城を親泰に与えている。

謀略上手の土佐土豪たちを次々と攻略した元親は、祖父以来、念願の土佐一国の統治に成功する。この覇業は、英雄.元親のすぐれた軍略のおかげであったが、少なからず、元親の副将兼軍師的な役割を果たした親泰の功績にも拠る所が大きい。

軍略を練り上げる元親に対し、その洗練された軍略を実戦で成就させていったのが親泰であった。このしっかりとした役割分担の上に長宗我部氏の四国制覇戦は展開していくのであった。親泰は長宗我部軍の主力部隊を率いて各地を転戦。特に阿波中富川の戦いにおいての活躍は目覚しく、三好家が四国に誇った”鬼十河”の異名を持つ屈強な敵軍部隊を完璧なまでに撃破している。

四国最大の精鋭部隊”鬼十河”の軍団を再起できないまでに撃破した親泰の武運はまさに留まるところを知らず。ついには四国全土に長宗我部家の軍旗を掲げるに至ったのである。ほぼ四国統一を果たした元親は、時をほぼ同じくする中央政権の確立を成した羽柴秀吉と拮抗すべく、泰然とした軍略軍備を施行した。

羽柴軍の四国遠征部隊が四国大陸にまもなく渡海するとの情報が流れる中、長宗我部軍は、秀吉に拮抗すべく準備を整えていた。

しかし、渡航直前に総大将の秀吉が病に沈むとそれに代わって、秀吉の実弟.羽柴秀長が総大将代理を務め、遠征してきたとの一報が長宗我部軍陣営に入る。

秀吉自体、どこの馬の骨ぞ!と皆が思っている中で、その弟とは。四国覇王の軍団をなめているのかと憤激しつつも、これで勝率がアップしたと内心ほくそえんだ四国勢は、羽柴軍を迎え討った。

しかし、予想に反して、秀長の軍略は的確。百戦錬磨の中央政権の武士団の戦なれしていることに驚く暇もなく、覇軍長宗我部氏の部隊は一敗地にまみれて敗走した。

主君.元親も渋々、秀吉軍の実力を認めて和議に応じ、秀吉の懐柔戦術と恩情により、土佐一国の安堵を許されるに至る。

その後、覇者同士の調和とでもいうのか、元親は、豊臣政権内で秀吉お気に入りの武将として政権内にてその地位をのし上げて行くことと成る。この点においては、中国の雄.毛利輝元が堅物であったのに較べて、処世術をわきまえていた勘のある元親の方が一枚上手であったと見るべきであろう。元親の柔軟な戦略家としての振る舞いにはさしもの実弟.親泰とて、舌を巻いたに違いない。

そんな逸材極まりない兄.元親をまじかに見ていた親泰ではあったが、秀吉の命により、長宗我部家が九州征伐の先発を任されるという誉れを受けた。軍功一番とばかりに勇んで長宗我部軍は九州に渡海した。親泰も勇み足を抑えつつ、長宗我部軍副大将兼、軍師として軍略を取り仕切ったが、野戦の戦術においては天下一ともうたわれた九州島津のつわものどもの猛攻に遭遇。四国勢は戸次川にて大混乱をきたす。親泰も自慢の軍統制能力を発揮する暇もなく、島津追撃隊の猛者たち攻撃を受け、敗走した。

結果的に逃げ惑うだけに終ったこの戸次川合戦では、長宗我部家を栄華に導くであろう期待の星.長宗我部信親を失うという大失態のまま幕を閉じたのであった。

この戦いによって、信親を失った長宗我部家は、その後、元親の狂乱と家督争いの痛手を負う事になる。

秀吉が天下を成した後、実弟.秀長、嫡子.鶴松を失い、寂しさの余り狂気の沙汰の末の朝鮮出兵という暴虐振りに走ったことと同じくして、兄.元親は二男.親和、三男.親忠を冷遇の末、幽閉。さっぱり風采の上がらない凡々の四男.盛親を長宗我部家嫡子とする暴挙を家中に強いている。親泰は、この暴挙を押し止めるだけの補佐をすることができなかった。

秀吉の朝鮮出兵の際に親泰は、これに従軍したが、無用な戦いに借り出されることに気落ちしたのか異国の人々を殺戮することなく長門国にて病没した,年51歳。

出處 http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/busyou1/d10/d10kyuu-page1/d10-b5.htm