木下勝俊 Kinoshita katsutoshi

木下勝俊 Kinoshita katsutoshi木下勝俊 Kinoshita katsutoshi(1569年-1649年)

1569年、木下家定の嫡男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、数少ない縁者として重用された。播磨国龍野城を与えられ、小田原征伐や文禄の役に参陣する。のち若狭国後瀬山城8万石を与えられた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

20歳代前半にあたる1590年代初め頃の時期から和歌に才能を発揮、文禄の役当時、構えられた陣へ向かう旅路で記された文章及び和歌は『九州道之記』として遺されている。

関ヶ原の戦いでは、東軍に属し鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されたものの、西軍が攻め寄せる直前に城を退去することとなった。それを知った妻のうめ(宝泉院)は勝俊の敵前逃亡に激怒し、離縁している。勝俊が伏見城を退去した理由には、彼の歌道の師匠である細川幽斎同様に、天皇をはじめとした朝廷による救出工作があったとされる説があり4、そのときに里村昌叱が勝俊を迎え入れた可能性があると思われる。また一方で、勝俊を可愛がっていた叔母の高台院が西軍を支持していたためとする説もある4。しかし伏見城の寄せ手に実弟の小早川秀秋の姿があったと知れば、武人より文人に傾いていた勝俊にとってむしろ当然の選択であったと理解できる。44。 戦後、その伏見城退去の責を問われて除封となる4

1608年、父の死去にあたって、叔母.北政所(高台院)らの周旋によって遺領(備中国足守2万5,000石)は安堵されたものの、その北政所の独断によって勝俊が遺領を独占した形となった。結果として遺領を共に(分地か同時統治か不明だが)継ぐこととなっていたはずの弟.利房が領国を得られなくなったため、江戸幕府の命に反したという理由で、再び勝俊は失領、結果として利房も所領を没収された形となった。代わりに遠縁にあたる浅野長晟が足守藩を一時領有した。なお、弟.利房は、大坂の陣で徳川方として参戦した軍功により、父の遺領である足守藩の継承が認められている。

勝俊は、京都東山、叔母高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営み、そこに隠棲、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣がありその二階には三十六歌仙図を掲げていた。後に石川丈山が比叡山西麓に隠棲しそこに詩仙堂を構えその二階に自ら選んだ36人の中国の詩人の額を掲げたのは、この歌仙堂に倣ったのである。

その後、長嘯子(勝俊)は挙白堂で1640年頃まで和歌を詠み続け、最晩年は山城乙訓大原野の勝持寺の畔に移住した。隠棲後も後妻か娘かは不明だが、家族と手紙のやりとりはあったらしい。

慶安2年(1649年)、同地で死去。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%8B%9D%E4%BF%8A

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