細川元常 Hosokawa Mototsune

細川元常 Hosokawa Mototsune細川元常 Hosokawa Mototsune(1482年-1554年)

明応9年(1500年)に畠山尚順と戦った父が戦死したため、家督と和泉半国守護職(上守護)を継いだ。九条政基の日根荘返付要求の動きに対して下守護の細川政久(まさひさ)とともに抵抗していたことが、政基の『政基公旅引付』に記されている。

ところが永正4年(1507年)に管領細川政元が暗殺(永正の錯乱)されると後継者をめぐって管領細川氏(細川京兆家)は分裂してしまう。元常は政元の養子.澄元を擁して足利義澄.細川政賢.畠山尚順とともにもう1人の養子.細川高国と戦うものの敗れて守護職を奪われた。高国は自派の守護を和泉国に送り込むが、元常は澄元ともに淡路国.阿波国に逃れて抵抗を続けた。永正8年(1511年)に義澄.澄元の命を奉じて上洛するが、船岡山合戦で敗北して命からがら阿波国に戻った。

澄元の死後はその嫡男.晴元を支持し、享禄4年(1531年)に高国が戦死すると、晴元から守護職に復帰することを許され、以後は晴元派として行動するようになり、領国内の反対派鎮圧のため度々に下向したとされる。ところが、天文年間の早い段階で元常の嫡男とみられる「五郎晴貞」(五郎は和泉上守護家の後継者の通称)が在国して、元常は京都を拠点とするようになり、この時期に家督と守護職を晴貞に譲っていた可能性がある。ちなみに長男の元春(もとはる)は庶子だったためか嫡子にはならず、分家している(地下家の一覧を参照)。

天文12年(1543年)から高国の養子.氏綱が晴元と抗争する。これに対して元常は晴元と共に氏綱と戦ったが、天文18年(1549年)に晴元の重臣.三好長慶が裏切って氏綱に味方したために敗れ(江口の戦い)、結果的には細川氏の所領は長慶によって奪われる形となった。晴貞もこの前後に記録から姿を消しており、生死不明となっている。そして細川一門そのものが没落することになり、元常も長慶に追われた将軍.足利義輝に随行して近江などへ逃れることになる。

天文23年(1554年)6月16日に死去。享年73。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%85%83%E5%B8%B8