堀直寄 Hori Naoyori

堀直寄 Hori Naoyori堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年)

天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男.秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。

慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。

会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。

慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。

9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。

慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男.鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟.為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。

語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣.神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。

慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男.堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣.山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。

飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。

大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。

夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山.道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。

元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。

元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。

元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。

直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。

直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』)
元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。

寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている4。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。

寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84