北条氏房 Hojo Ujifusa

北条氏房 Hojo Ujifusa北条氏房 Hojo Ujifusa(1565年-1592年)

岩付城主.太田氏資が永禄10年(1567年)に戦死したため、その娘を娶って太田氏の家督を継ぎ、太田氏房と称したと一般的にいわれている。しかし、氏資の娘は氏房の兄の源五郎(あるいは東国丸)に嫁いだとされ、氏房と氏資の娘の婚儀が行われたのは天正13年(1585年)とする文書も存在しており、天正10年(1582年)に死去したとされる源五郎の後継者としてその未亡人である氏資の娘と婚姻を行った可能性もある。更に太田姓を称したかも定かではない4

天正8年(1580年)12月、父.氏政、兄.氏直.同源五郎と並んで菊王丸の名で、相模大井宮に料足を寄進しているのが史料上の初見。翌年7月から岩付領支配のための文書を出している。ただし、岩付衆への軍事指揮権や領内裁判権は隠居の氏政が掌握しており、氏房の全権支配が始まるのは天正13年(1585年)7月の婚姻以後の事である。天正15年(1587年)、氏房が松浦氏を奉行人とし、与野郷周辺の堤防築造を人足百人宛5日の日限で命じた古文書が指定有形文化財として現存している。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐では居城の岩槻城は家臣に守らせ、自分は小田原城に籠城した。包囲中、氏房は蒲生勢に夜襲をかけるなど北条側唯一といえる攻勢に出ている。ちなみに岩槻城は、小田原城開城に先立って5月20日に陥落した。

北条氏滅亡後、兄.氏直と共に高野山で蟄居した。その後、寺沢広高預かり4となって肥前に移され、そこで天正20年(1592年)4月12日に病死した4。享年28。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%B0%8F%E6%88%BF