後藤基次 Goto Mototsugu

後藤基次 Goto Mototsugu後藤基次 Goto Mototsugu(1560年-1615年)

黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。

諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門4(基国?.後藤氏当主.伯父説あり44)の次男として生まれた。

天正6年(1578年)、黒田孝高荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父.藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる4

当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである4。戸次川の戦いにおいて仙石秀久島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った4。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し4加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。

如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家.細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則前田利長結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった4。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた4。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも4)。

慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった4。歴戦の将として大坂城五人衆4の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長.治房らを補佐した。冬の陣では6000人4の遊軍を任され、鴫野.今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。

翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口.国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦4し賞賛された44。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ44、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開.突撃を敢行し、乱戦の中に討死した4。享年56。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1

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