願証寺蓮淳 Ganshoji Renjun

願証寺蓮淳 Ganshoji Renjun願証寺蓮淳 Ganshoji Renjun(1464年-1550年)

本願寺蓮如の6男で、母は伊勢貞房の娘蓮祐。正室は滋野井教国の娘。幼名は光徳、諱は兼誉。

兄の第9世法主実如の命により近江大津近松の顕証寺(後の光応寺)に入り、伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)に願証寺を創建する。後に弟の実賢(蓮如9男)や実順(蓮如11男).実真親子らの早世によって空座となった称徳寺(堅田御坊)や河内顕証寺の住持も兼任した。北陸地方に拠点があった他の兄弟と違って畿内を拠点にしていた事、実如の同母弟であった事から自然と実如の相談役となり、その後継者として予定されていた円如を婿とした。円如は若くして没したものの、娘.慶寿院は第10世法主証如を生んでいる。

主に近江.伊勢.河内の教団発展に努力し、実如の死の際には共通の孫にあたる証如を託され、多くの有力寺院の住持を兼任する蓮淳は幼少の法主の後見人として本願寺内部で大きな発言権を持ち、指導的な役割を果たした。

各地の戦国大名に対抗して教団の統率力を高めた事は評価されるものの、後に驕りから顕証寺と布教地域が重複していた教団内の有力寺院である堅田本福寺に3度(1518年.1527年.1532年)も無実の罪を着せて破門するなどの専横を見せるようになった(破門は本来法主にしか許されていなかったが、蓮淳は証如の後見人としての職務代行を利用して破門を行った)。この横暴ぶりに対して一族や地方の門徒が激しく反発するようになり、 また永正の一揆(九頭竜川の戦い等)で越前から加賀へ逐われて来た藤島超勝寺.和田本覚寺(大一揆)と、加賀の国主権限も認められていた賀州三ヶ寺(若松本泉寺.波佐谷松岡寺.山田光教寺。小一揆)間の加賀国内での諍いでは、蓮淳の娘婿である超勝寺の実顕方へ介入し下間頼秀.下間頼盛兄弟を派兵するなど大小一揆のきっかけを作ったのみならず、この内紛で対立した実の兄弟(蓮如の諸子息)やその家族の処刑.追放を行った。また、この乱に関連して細川晴元によって山科本願寺を焼き討ちにされた際に証如を置き去りにして、次男実恵がいる願証寺に戻った事も非難の的になった。

晩年は河内顕証寺の住持を長男実淳に譲り、隠居号として光応寺を名乗ったが、天文11年(1542年)6月に実淳が52歳で先立った為にやむなく8月には河内顕証寺に再び戻り、同寺の住持にも復帰することとなった。

天文19年8月18日(1550年9月28日)没。享年87。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E6%B7%B3