跡部勝資 Atobe Katsusuke

跡部勝資 Atobe Katsusuke跡部勝資 Atobe Katsusuke(生年不詳-1582年)

跡部氏は信濃国守護小笠原氏庶流で信濃国跡部郷に発し、室町時代には跡部景家のころ甲斐国守護代として権勢を持つ。景家は武田氏の討伐を受けて没落し、武田晴信(信玄).勝頼期には武田家臣団のなかに一族の跡部勝忠.跡部昌忠などの名が見られ、譜代家老などをつとめるが、『跡部氏系譜』では信秋.勝資父子の出自が守護代跡部氏に遡ることは記されているものの、その正確な系譜は不明。

信玄.勝頼期に甲斐武田氏は大名領国を拡大した結果、当主周辺には常駐家臣が少なくなり譜代家老の子弟が側近として当主に近侍しており、勝資は山県昌景.土屋昌続.原昌胤らとともに信玄側近として数多くの朱印状奉者として見られる。また、『甲陽軍鑑』によれば勝資は300騎持の侍大将といわれ、武田家中では山県昌景春日虎綱高坂昌信)と並び最大級の動員力である。

天文18年(1549年)には武田氏の信濃国侵攻において望月氏、大井氏、伴野氏ら佐久郡の国衆を服属させているが、同年5月には大井信常を大井氏の名代に命じる使者として駒井高白斎とともに「跡又」が派遣されており、以来永禄9年(1566年)まで仮名「又八郎」で奉者として名が見られ、これが勝資に比定されると考えられている。同年閏8月からは「大炊助」の官途名に変わり領国各地の国衆との取次を務めているほか、永禄10年(1567年)の武田家中における義信事件に際した下之郷起請文においても奉行を務めている。

勝頼期には対外交渉において越後国上杉氏との甲越同盟や常陸国佐竹氏との甲佐同盟などにおいて取次を務めており、勝資は一門の武田信豊との組み合わせで取次を務めている事例が多い。

『信長公記』に拠れば、天正10年(1582年)3月11日には織田.徳川連合軍による甲斐侵攻において勝頼とともに死去。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%A1%E9%83%A8%E5%8B%9D%E8%B3%87