有馬直純 Arima Naozumi

有馬直純 Arima Naozumi有馬直純 Arima Naozumi(1586年-1641年)

父:有馬晴信、母:大上(山田純規の娘)、正室:マルタ(小西如清の娘)、継室:国姫(本多忠政の娘、徳川家康の養女);初名忠清,父同様、キリシタンであり、洗礼名はミゲル,戒名月光院殿金吾身誉崇出大居士。

慶長5年(1600年)、15歳から親元を離れ、駿府城で徳川家康に側近として仕える。慶長15年(1610年)、キリシタンであった妻.マルタ(小西行長の姪)を離縁し、家康の養女.国姫(桑名藩藩主.本多忠政の娘)を正室として娶った。

慶長17年(1612年)、父.晴信は岡本大八事件の責任を問われて(直純は早期の家督継承と、妻.国姫の意向を受けてキリシタンとの縁を切るべく、父を処断するように幕臣へ訴えたともされる)、改易のうえ死罪となったが、直純は家康との縁が深かったために連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江藩主となった。同年の江戸幕府による禁教令に従い改宗し、領内のキリシタンを迫害した。また、慶長18年(1613年)4月25日には、父とその後妻.ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟(フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)という洗礼名のみ残る)を殺害している。

しかし、これらのことから良心の呵責に耐えかねて嫌気がさし、幕府に転封を願い出て、慶長19年(1614年)7月に日向延岡に5万3千石の所領を与えられた。寛永14年(1637年)に旧領で起こった天草.島原の乱においては、地理に明るいことから4000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、乱を起こした自らの旧臣や元領民と対決した。なおこの時、豊前中津藩主小笠原長次配下の軍監として参戦していた剣豪.宮本武蔵から書簡を受け取っている4

寛永18年(1641年)、参勤交代の途中、大坂屋敷にて死去した。享年56。一説には明石沖の船中にて死去ともいわれる。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%9B%B4%E7%B4%94