明石全登 Akashi Takenori

明石全登 Akashi Takenori明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳)

備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男.赤松貞範の子孫)である4

行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。

慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安.宇喜多詮家(坂崎直盛).岡貞綱.花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤.豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった4

慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。

西軍敗走の際に田中吉政の家来.上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。

戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。

宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水4の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成神保相茂伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺.岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成松平忠直本多忠政藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB