首頁 日本戰國.人物誌

日本戰國.人物誌

招募人物誌資料核對、日文翻譯人員,歡迎參與。 以「信長之野望」出現的人物為目標,於網路收集、整理, 以下為「信長之野望.創造 威力加強版」的人物表,目前收集方向。 織田信長 織田信長 Oda Nobunaga おだ のぶなが 尾張 東海 柴田勝家 柴田勝家 Shibata Katsuie しばた かついえ 尾張 東海 前田利家 前田利家 Maeda Toshiie まえだ としいえ 尾張 東海 明智光秀 明智光秀 Akechi Mitsuhide あけち みつひで 美濃 東海 豐臣秀吉 羽柴秀吉 Hashiba Hideyoshi はしば ひでよし 尾張 東海 齋藤道三 斎藤道三 Saito Dousan さいとう どうさん 美濃 東海 德川家康 徳川家康 Tokugawa Ieyasu とくがわ いえやす 三河 東海 本多忠勝 本多忠勝 Honda Tadakatsu ほんだ ただかつ 遠江 東海
ルイス・デ・アルメイダ Luis de Almeida(1525年?-1583年) 戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。 アルメイダは、1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。 アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。 布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。 神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。 日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1566年には五島の領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた。 1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%80
一柳直盛 Hitotsuyanagi Naomori(1564年-1636年) 河野氏一族一柳直高次子,生於美濃國厚見郡。追隨其兄征戰,直末,天正十年(1582年)備中宿毛塚城攻城戰中立有武名。 天正十八年(1590年),小田原征伐中直末戰死之故,繼承其位仕於豐臣秀吉。由秀吉處獲得尾張國黑田城3萬石知行。天正十九年(1591年),任從五位下監物。現留有其隸屬豐臣秀次作為奉行參與各地的兼地工作的記錄。文祿元年(1592年),加贈5000石。 慶長五年(1600年)關原之戰隸屬東軍。同池田輝政、淺野幸長參加河田木曾川渡河之戰與岐阜城攻城戰立有功勞,負責守備大垣與佐和山中間位置的長松城。因此功勞,戰後加贈1萬5000石,受領伊勢神戶5萬石領地。 慶長十九年(1614年)大阪之陣參陣立功。以後,受命與德川秀忠、德川家光之上洛及日光社參供奉工作。寬永十年(1633年)於九鬼久隆轉封後受命負責鳥羽城守衛。 寬永十三年(1636年)6月1日,加贈1萬8000餘石,轉封伊予國西條。自此,成為領有伊予國新居郡、宇摩郡、周敷郡以及播磨國加東郡6萬8000餘石領地之領主。然而同時受德川家光之命將加增土地加東郡中5000石分予次男直家,因而直盛所領合計6萬3000餘石。新封之伊予為父祖河野氏之舊領,然而直盛在赴領地上任途中於同年8月19日,因病死於大阪,年七十三歲。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-153 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E7%9B%9B
一條信龍 Ichijo Nobutatsu(1539年-1582年) 信龍被認為是武田信虎的末子,按系圖則是河窪信實的弟弟,然而在天正十年(1582年),信龍的兒子自稱右衛門大夫,而信實之子河窪信俊則只自稱新十郎,因此信龍是否較為年少的說法,存有異論。 信龍為甲斐市川鄉上野城主,繼承甲斐源氏出身武田信義次子.一條忠賴為家祖的一條氏。信龍擁有親族眾的200名騎兵、依跡10騎和大津10騎,負責與本願寺和松永久秀等畿內勢力進行外交工作。武田信玄死後,信龍依從其遺言武田勝賴的監護人。 信龍在戰事發生時主要負責防衛後方,雖然因此未有立下太多戰功,但在『甲陽軍鑑』卻將他與山縣昌景、馬場信春等人相題並論。信玄向駿河進攻後,信龍成為田中城代。 天正三年(1575年)爆發的長篠之戰中,信龍亦有參戰,按『甲陽軍鑑』記載他與佐久間軍,聯手攻破敵軍兩重防柵,並且與馬場信春軍掩護友軍撤退,在勝賴脫險後才退兵。其後,信龍的田中城代職務由其子一條信就接替,自己則與武田信堯一同擔任駿府城代。 天正十年(1582年)爆發的甲州征伐中,德川軍在2月進攻由信龍防守的駿河,其後在3月2日,信龍從駿河撤退並返回上野城,與此同時,德川家康的三河軍將上野城重重包圍同方面。3月10日,信龍帶領僅300人突擊三河軍的1萬人,最終與其子信就一同戰死。 然而按『信長公記』的記載則是在天正十年(1582年)3月7日,信龍與武田信廉一同被斬首,亦有指其實被斬首的是武田信基,而按照黑田基樹的說法卻是信龍之子信就被斬首。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E4%BF%A1%E9%BE%8D
一條兼定 Ichijo Kanesada(1543年-1585年) 一條房基的長子、母為大友義鑑之女、養父為一條房通、正室為宇都宮豐綱之女、繼室為大友宗麟次女;幼名萬千代、受一條兼冬偏諱「兼」字,名為兼定、法號宗惟、基督教洗禮名Don Paul。 天文十八年(1549年),因為父親房基自殺而以7歲之齡繼任家督,身為關白的大叔父一條房通成為兼定的養父和後見。在房通死亡的弘治二年(1556年)以後元服,接受繼承房通的義兄一條兼冬的偏諱「兼」字,名為兼定。 永祿元年(1558年)娶伊予國宇都宮豐綱的女兒,但是在永祿七年(1564年)離別而娶豐後國大友宗麟的次女並與大友氏結交。還有為爭奪伊予國霸權而於永祿十一年(1568年)在豐綱的支援下於伊予進出,但與有安藝毛利氏援兵的河野氏戰鬥大敗。與京都的一條家本家漸漸疏遠。 這段時期土佐國的長宗我部元親開始抬頭,雖然呼應女婿安藝國虎討伐元親,但國虎反在永祿十二年(1569年)被元親討殺。之後被長宗我部氏侵食領土。 重臣土居宗珊因為時常勸諫兼定,引起兼定不滿被無故殺害,家臣對兼定失去信望,在其他三家老羽生、為松、安並等人合議下於天正元年(1573年)9月被強制隱居。 天正二年(1574年)2月,被追放到豐後臼杵而投靠大友氏,得知兼定被追放而憤慨的加久見城城主加久見左衛門與在平時就對一條氏的老臣相當反感的大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉等人合謀舉兵襲擊中村並討伐一條氏的老臣,長宗我部元親乘亂以鎮定叛亂為名佔領中村。 天正三年(1575年)信奉基督教,由傳教士(ジョアンカブラル)洗禮,洗禮名為Don Paul(ドン パウロ)。 同年7月,兼定企圖再興而借大友氏之力向土佐國進擊,但是在四萬十川之戰中大敗,作為戰國大名的土佐一條氏滅亡。此後隱居在瀨戶內海的戶島,不過遭到被舊臣暗殺等苦難,在耶穌會傳教士范禮安的書簡中有記述。 天正十三年(1585年)於戶島死去,年四十三歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E5%85%BC%E5%AE%9A
一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?) 父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。 剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。 中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。 また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。 戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
一色義幸 Isshiki Yoshiyuki(生年不詳-没年不詳) 第13代当主一色義有の子、または第9代当主一色教親の子で義有の養子とされる。子に一色義道(義辰)、一色昭辰(あきたつ)、一色義清(越前守)。左京大夫。名前(諱)の「義」の字は家の慣例に倣って足利将軍家よりその通字を受けたものである。 前代までの一色氏は、隣国である山名氏と親しく応仁の乱においても西軍に与したため管領細川氏により丹後国の守護職を一時期隣国の若狭武田氏に奪われるなど没落し、さらに守護代延永氏をはじめとする国人達の離反により衰退していた。先代の当主は一色義貫の末裔の一色義有(義道の子・義定とは別人)か、一色義清(左京大夫)(子の越前守義清とは別人)と思われるが、戦国の混乱期であり記録が乏しいため義幸が当主に就任する直前の時期の一色氏の動向ははっきりせず、また伝わる系譜も多種あるために繊細には分からない。 先々代(義幸の父)とされる一色義有は幕府の御供衆にも列する一色氏一門で、また丹後一色氏の元、郡代もつとめていた。しかし、義有およびその次代(義有の子で義幸の兄とされる)義清(左京大夫)が亡くなり一色氏本家(一色義貫流)の血筋が絶えると、一色教親の子(末裔)である義幸が一色宗家を継承し、幕府より丹後守護職に任命された(若狭武田氏より丹後守護を脱還)という。また義幸は若狭武田氏の勢力を追い、加佐郡の丹後守護所(八田守護所)および建部山城(八田城)に入ったとされる。 守護代延永氏との関係も良好であり、若狭にもたびたび攻め入り若狭守護武田元光と丹後・若狭の領有をめぐって争ったという。 驍将であった義幸も永禄元年(1558年)には隠居し、一色氏宗家の家督を自分の子義道に譲った。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%B9%B8
一色義道 Isshikii Yoshimichi(生年不詳-1579年) 別名は一色義辰(よしたつ)・一色義通(よしみち)、「義」の字は室町幕府第15代将軍足利義昭より足利将軍家の通字を賜ったものである。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定、兄弟に昭辰(あきたつ)、義清がいる。 一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。 永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し加佐郡の八田守護所および建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。また同じく弟の昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、彼は同じく将軍足利義昭より偏諱(下の「昭」の字)を授与されてその奉公衆として将軍家に近侍した。 義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭将軍より丹後一国を正式に安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将である明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。 翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある) 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
一萬田鑑實 Ichimada Akizane(生年不詳-1588年) 豐後大友氏的家臣,一萬田氏當主。小牟禮城、鳥屋山城城主。兵部大輔。美濃守。 父親是一萬田親實(鑑相),叔叔有高橋鑑種、宗像鑑久。弟弟有鑑景、鑑通、鎮之。有兩子鎮實和統賢。將一萬田家督讓與嫡男鎮實後,繼承鳥鼻城主橋爪鑑種,並改名橋爪鑑述。法名宗慶。 最初仕奉大友義鑑,和父親一同獲賜偏諱並改名鑑實(父親改名鑑相)。義鑑死後仕奉其子大友義鎮(大友宗麟),但義鎮卻於天文二十二年(1553年)以謀反的嫌疑將父親鑑相及叔父宗像鑑久誅殺,事件發生後鑑實繼承家督,並未怨恨大友宗麟而仍繼續仕奉大友家。天文十九年(1550年)討伐菊池義武、弘治三年(1557年)討伐秋月文種中皆有獲得軍功(此時繼承橋爪氏)。永祿十一年(1568年)叔父高橋鑑種謀反,鑑實並未跟隨而是站在宗麟方討伐鑑種。 永祿十二年(1569年)在與毛利氏的多多良濱之戰和嫡男一萬田鎮實及朽網鑑康一同擊退乃美宗勝和桂元重。天正六年(1578年)耳川之戰擔任殿軍,因軍功任加判眾而得以活躍在大友宗麟的身旁。自天正十四年(1586年)開始和島津氏一連串的戰爭(豐薩合戰),許多大友氏武將包含一萬田氏一族在內紛紛投靠島津氏,鑑實仍留在大友氏並立下不少軍功。 但是在天正十六年(1588年)突然被大友義統(大友宗麟之子)命令自盡。因為在先前的戰爭中家族有人謀反(族人一萬田紹傳投靠島津氏),鑑實受到牽連而被迫自盡。 註:其子鎮實也被迫自盡。鑑實的另一個兒子宗賢在大友家改易之後,曾經跟著黑田長政出征,之後做為肥後細川藩藩士延續到幕末。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_24.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%90%AC%E7%94%B0%E9%91%91%E5%AE%9F
七里賴周 Shichiri Yorichika(1517年-1576年?) 賴周本來是本願寺的青侍(下級武士),因本願寺顯如認為其頗有前途於是當上了坊官,受命領導加賀一向一揆。織田信長與石山開戰後,受顯如之命指揮加賀的一向門徒同織田軍反復爭鬥,因而被一向門徒稱作「加州大將」。 天正二年(1574年),越前國的前波吉繼(桂田長俊)施行暴政,國人與民眾的不滿達到了極點。於是在富田長繁的調動下民眾掀起了針對長俊的土一揆,富田長繁自己出任大將帶兵包圍了長俊據守的一乘穀城並將其攻破,消滅了長俊。長繁接著又殺害了魚住景固。一揆眾對消滅並無敵意的魚住一族一事頗有微詞,決定與無謀的長繁劃清界限。於是一揆眾將長繁拉下大將寶座,籌劃著另尋他人做自己的領導人。這時賴周於眾人當中脫穎而出。究其原因是因為一揆眾中有相當數量的本願寺門徒,正是這些門徒推薦他出任大將。因而一揆由富田長繁領導的土一揆轉變為賴周領導的一向一揆。一揆眾將長繁及其同黨,土橋信鏡(朝倉景鏡),平泉寺等敵對勢力相繼消滅。之後,越前一國由本願寺派來的下間賴照進行支配,賴周也被納入賴照的指揮下。 在二月中旬的時候,一向門徒上交了被消滅的國人眾黑阪一族的首級,賴周大怒,以「沒有我的命令就自作主張將武士殺害是違犯軍律」為由將其處死。 然而,賴周藉著自己大權在握,上述處刑之類的蠻橫行為也屢見不鮮,因而在門徒當中人望盡失,門徒們彈劾賴周的彈劾信一直送到石山本願寺坊官下間賴廉之處。就這樣,發生了越前一向門徒與加賀一向門徒的分裂(一揆內一揆)。織田信長發覺了這一機會,在天正三年(1575年)8月,派大軍攻入越前。下間賴照與賴周兩人在門徒中毫無聲望,完全無法進行指揮,被打得大敗。賴照被殺死在逃亡過程中,賴周則逃亡到了加賀。 次年,賴周將加賀司令之位交與下間賴純,然而一揆據點之一的加賀松任城主鏑木賴信萌生叛意將其殺害,此為一說。另一說賴周敗給織田軍撤退過程中被殺。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=12#postid-283 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
三刀屋久扶 Mitoya Hisasuke(生年不詳—1591年) 有一說三刀屋本姓諏訪部,是清和源氏滿快流信濃源氏的一族。諏訪部幸扶的子孫擔任出雲國飯石郡三刀屋鄉的地頭,開始以「三刀屋」為姓。三刀屋氏到出雲國後先後仕奉過鹽冶氏、山名氏、京極氏,應仁之亂時仕奉出雲國守護京極持清。 享祿元年(1528年)從父親賴扶那裡繼承家督。在尼子氏下擔任總侍眾,俸祿是三刀屋領地的6785石。 天文九年(1540年)隨主君尼子晴久進攻安藝國毛利元就的居城吉田郡山城,天文十年(1541年)敗給大內氏家臣陶隆房的援軍,於是晴久返回出雲國。在此次敗北後三刀屋氏合肉道氏(肉道隆慶)、三澤氏再度倒向大內氏,但天文十二年(1543年)大內義隆遠征出雲,還未攻下月山富田城時,久扶和其他出雲國人眾又倒向尼子氏,義隆因此戰敗。此後,晴久加強對出雲國內家臣的統制,將偏諱廣賜給家臣,而久扶也在弘治三年(1557年)獲得「久」字的偏諱。 久扶回到尼子陣營過了一段時間,永祿元年(1558年)的忍原崩,尼子氏大勝毛利氏,但在永祿五年(1562年)山吹城主本城常光倒向毛利氏,久扶和三澤為清及赤穴盛清也同樣投身到毛氏。而三刀屋城成為毛利氏重要的軍事據點,在久扶的防守下於永祿六年(1563年)在地王卡擊退來犯的立原久綱。之後的白鹿城之戰、第二次月山富田城之戰皆有參與,和三澤為清、米原綱寬從屬小早川隆景,擔任進攻月山富田城菅谷口的先鋒。終於,月山富田城內的尼子氏向毛利氏投降。 永祿十二年(1569年)山中幸盛以復興尼子氏為名舉兵而起,許多尼子舊臣回到復興軍的旗下,但尼子的舊臣們懷疑久扶的忠誠因而拒絕,久扶只好繼續留在毛利方跟著吉川元春攻打私部城等處,並於天正六年(1578年)的上月城之戰將尼子復興軍覆滅。久扶向毛利輝元交出誓文宣示忠誠,也需跟隨毛利家出征,並擁有獨立的權限。 天正十四年(1586年)跟著毛利氏進攻小倉城。而在肥後國發生一揆時,和子孝扶一同參與鎮壓。但是在天正十六年(1588年)跟隨主君毛利輝元上洛之時和德川家康會面,此舉受到輝元的猜疑而被沒收領地並流放。 之後前往京都,天正十九年(1591年)在四日市村死去。 註:忍原崩是尼子晴久和毛利元就爭奪石見銀山的戰爭,戰後晴久將山吹城交給本城常光;晴久死後其子尼子義久單方面和毛利氏議和,令反毛利的國人眾動搖,後毛利氏再度包圍山吹城,投降後的本城常光被元就誅殺。 (點擊查看)附上一張從三刀屋城跡眺望的照片,三刀屋川堤上種了兩排櫻花樹,附近的木次斐伊川堤防是著名的賞櫻景點,從木次走到三刀屋大約40分鐘,不過三刀屋城跡什麼都沒有。這裡有稀有的櫻花品種"御衣黃",花期大約晚染井吉野櫻兩周。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_22.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%89%B6
三善一守 Miyoshi Kazumori(1547年-1615年) 越中国池田城(小浦山城)主。松原斉安とも。本姓三善氏。父は小浦光康。石見守を名乗る。子に松原一二。 『松原氏系譜』によれば、祖は鎌倉幕府問注所執事三善康信の末葉、石見守朝宗が、応安年間に備後国から越中国に入り氷見池田村の小浦山に城を築き居住したという。桃井直常討伐による恩賞として地頭職を得たものであろう。ただし、これらの所伝は仮冒で、越中の古代氏族射水臣氏出身の三善為康の子孫であろうとの説もある。一守は朝宗より七代の孫で、父光康は能登畠山氏に仕えて戦功があったという。朝光の時代々居住してきた地名をとって小浦と改姓したという。 永禄10年(1567年)、父光康の没後に家督を継ぐ。 天正4年(1576年)、上杉謙信に臣従し、子内匠を人質として差し出した。長沢光国の与力として働く。謙信の死後、越中の上杉勢力が衰退すると、織田方に靡き、父子で佐々成政に仕える。天正13年、成政が豊臣秀吉に降りると成政に従い肥後国に移る。 天正15年の成政の没後、越後の堀秀政に仕える。堀家改易後浪人し、文禄二年能登国羽咋郡飯山に移住し、姓を松原と改め、斉安と号して隠棲した。 元和元年(1615年)に死亡。子松原内匠一二は慶長16年に加賀藩前田家に300石で仕え、大坂の役の際利常に従って青屋口で首一つを討ち取る功をあげ、1600石を知行した。子孫は加賀藩士として続いた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%A6%E4%B8%80%E5%AE%88