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日本戰國.人物誌

ルイス・デ・アルメイダ Luis de Almeida(1525年?-1583年)戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。アルメイダは、1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1566年には五島の領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた。1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%80
一柳直盛 Hitotsuyanagi Naomori(1564年-1636年)河野氏一族一柳直高次子,生於美濃國厚見郡。追隨其兄征戰,直末,天正十年(1582年)備中宿毛塚城攻城戰中立有武名。天正十八年(1590年),小田原征伐中直末戰死之故,繼承其位仕於豐臣秀吉。由秀吉處獲得尾張國黑田城3萬石知行。天正十九年(1591年),任從五位下監物。現留有其隸屬豐臣秀次作為奉行參與各地的兼地工作的記錄。文祿元年(1592年),加贈5000石。慶長五年(1600年)關原之戰隸屬東軍。同池田輝政、淺野幸長參加河田木曾川渡河之戰與岐阜城攻城戰立有功勞,負責守備大垣與佐和山中間位置的長松城。因此功勞,戰後加贈1萬5000石,受領伊勢神戶5萬石領地。慶長十九年(1614年)大阪之陣參陣立功。以後,受命與德川秀忠、德川家光之上洛及日光社參供奉工作。寬永十年(1633年)於九鬼久隆轉封後受命負責鳥羽城守衛。寬永十三年(1636年)6月1日,加贈1萬8000餘石,轉封伊予國西條。自此,成為領有伊予國新居郡、宇摩郡、周敷郡以及播磨國加東郡6萬8000餘石領地之領主。然而同時受德川家光之命將加增土地加東郡中5000石分予次男直家,因而直盛所領合計6萬3000餘石。新封之伊予為父祖河野氏之舊領,然而直盛在赴領地上任途中於同年8月19日,因病死於大阪,年七十三歲。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-153 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E7%9B%9B
一條信龍 Ichijo Nobutatsu(1539年-1582年)信龍被認為是武田信虎的末子,按系圖則是河窪信實的弟弟,然而在天正十年(1582年),信龍的兒子自稱右衛門大夫,而信實之子河窪信俊則只自稱新十郎,因此信龍是否較為年少的說法,存有異論。信龍為甲斐市川鄉上野城主,繼承甲斐源氏出身武田信義次子.一條忠賴為家祖的一條氏。信龍擁有親族眾的200名騎兵、依跡10騎和大津10騎,負責與本願寺和松永久秀等畿內勢力進行外交工作。武田信玄死後,信龍依從其遺言武田勝賴的監護人。信龍在戰事發生時主要負責防衛後方,雖然因此未有立下太多戰功,但在『甲陽軍鑑』卻將他與山縣昌景、馬場信春等人相題並論。信玄向駿河進攻後,信龍成為田中城代。天正三年(1575年)爆發的長篠之戰中,信龍亦有參戰,按『甲陽軍鑑』記載他與佐久間軍,聯手攻破敵軍兩重防柵,並且與馬場信春軍掩護友軍撤退,在勝賴脫險後才退兵。其後,信龍的田中城代職務由其子一條信就接替,自己則與武田信堯一同擔任駿府城代。天正十年(1582年)爆發的甲州征伐中,德川軍在2月進攻由信龍防守的駿河,其後在3月2日,信龍從駿河撤退並返回上野城,與此同時,德川家康的三河軍將上野城重重包圍同方面。3月10日,信龍帶領僅300人突擊三河軍的1萬人,最終與其子信就一同戰死。然而按『信長公記』的記載則是在天正十年(1582年)3月7日,信龍與武田信廉一同被斬首,亦有指其實被斬首的是武田信基,而按照黑田基樹的說法卻是信龍之子信就被斬首。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E4%BF%A1%E9%BE%8D
一條兼定 Ichijo Kanesada(1543年-1585年)一條房基的長子、母為大友義鑑之女、養父為一條房通、正室為宇都宮豐綱之女、繼室為大友宗麟次女;幼名萬千代、受一條兼冬偏諱「兼」字,名為兼定、法號宗惟、基督教洗禮名Don Paul。天文十八年(1549年),因為父親房基自殺而以7歲之齡繼任家督,身為關白的大叔父一條房通成為兼定的養父和後見。在房通死亡的弘治二年(1556年)以後元服,接受繼承房通的義兄一條兼冬的偏諱「兼」字,名為兼定。永祿元年(1558年)娶伊予國宇都宮豐綱的女兒,但是在永祿七年(1564年)離別而娶豐後國大友宗麟的次女並與大友氏結交。還有為爭奪伊予國霸權而於永祿十一年(1568年)在豐綱的支援下於伊予進出,但與有安藝毛利氏援兵的河野氏戰鬥大敗。與京都的一條家本家漸漸疏遠。這段時期土佐國的長宗我部元親開始抬頭,雖然呼應女婿安藝國虎討伐元親,但國虎反在永祿十二年(1569年)被元親討殺。之後被長宗我部氏侵食領土。重臣土居宗珊因為時常勸諫兼定,引起兼定不滿被無故殺害,家臣對兼定失去信望,在其他三家老羽生、為松、安並等人合議下於天正元年(1573年)9月被強制隱居。天正二年(1574年)2月,被追放到豐後臼杵而投靠大友氏,得知兼定被追放而憤慨的加久見城城主加久見左衛門與在平時就對一條氏的老臣相當反感的大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉等人合謀舉兵襲擊中村並討伐一條氏的老臣,長宗我部元親乘亂以鎮定叛亂為名佔領中村。天正三年(1575年)信奉基督教,由傳教士(ジョアンカブラル)洗禮,洗禮名為Don Paul(ドン パウロ)。同年7月,兼定企圖再興而借大友氏之力向土佐國進擊,但是在四萬十川之戰中大敗,作為戰國大名的土佐一條氏滅亡。此後隱居在瀨戶內海的戶島,不過遭到被舊臣暗殺等苦難,在耶穌會傳教士范禮安的書簡中有記述。天正十三年(1585年)於戶島死去,年四十三歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E5%85%BC%E5%AE%9A
一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?)父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
一色義幸 Isshiki Yoshiyuki(生年不詳-没年不詳)第13代当主一色義有の子、または第9代当主一色教親の子で義有の養子とされる。子に一色義道(義辰)、一色昭辰(あきたつ)、一色義清(越前守)。左京大夫。名前(諱)の「義」の字は家の慣例に倣って足利将軍家よりその通字を受けたものである。前代までの一色氏は、隣国である山名氏と親しく応仁の乱においても西軍に与したため管領細川氏により丹後国の守護職を一時期隣国の若狭武田氏に奪われるなど没落し、さらに守護代延永氏をはじめとする国人達の離反により衰退していた。先代の当主は一色義貫の末裔の一色義有(義道の子・義定とは別人)か、一色義清(左京大夫)(子の越前守義清とは別人)と思われるが、戦国の混乱期であり記録が乏しいため義幸が当主に就任する直前の時期の一色氏の動向ははっきりせず、また伝わる系譜も多種あるために繊細には分からない。先々代(義幸の父)とされる一色義有は幕府の御供衆にも列する一色氏一門で、また丹後一色氏の元、郡代もつとめていた。しかし、義有およびその次代(義有の子で義幸の兄とされる)義清(左京大夫)が亡くなり一色氏本家(一色義貫流)の血筋が絶えると、一色教親の子(末裔)である義幸が一色宗家を継承し、幕府より丹後守護職に任命された(若狭武田氏より丹後守護を脱還)という。また義幸は若狭武田氏の勢力を追い、加佐郡の丹後守護所(八田守護所)および建部山城(八田城)に入ったとされる。守護代延永氏との関係も良好であり、若狭にもたびたび攻め入り若狭守護武田元光と丹後・若狭の領有をめぐって争ったという。驍将であった義幸も永禄元年(1558年)には隠居し、一色氏宗家の家督を自分の子義道に譲った。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%B9%B8
一色義道 Isshikii Yoshimichi(生年不詳-1579年)別名は一色義辰(よしたつ)・一色義通(よしみち)、「義」の字は室町幕府第15代将軍足利義昭より足利将軍家の通字を賜ったものである。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定、兄弟に昭辰(あきたつ)、義清がいる。一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し加佐郡の八田守護所および建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。また同じく弟の昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、彼は同じく将軍足利義昭より偏諱(下の「昭」の字)を授与されてその奉公衆として将軍家に近侍した。義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭将軍より丹後一国を正式に安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将である明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある)出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
一萬田鑑実 Ichimada Akizane(生年不詳-1588年)豊後大友氏の家臣。一萬田氏当主。小牟礼城城主。鳥屋山城城主。兵部大輔。美濃守。父は一萬田親実(鑑相)で、その弟高橋鑑種、宗像鑑久は叔父にあたる。弟に鑑景(あきかげ)、鑑通(あきみち)、鎮之(しげゆき)、子に鎮実(しげざね)、統賢(むねかた)がいる。嫡男・鎮実に一萬田氏の家督を譲って後は鳥ヶ鼻城主・橋爪鑑種(あきたね)の跡を継承して橋爪鑑実、鑑述(あきのぶ)に改名。法名は宗慶。初めは大友義鑑に仕え、父とともに偏諱を賜って鑑実と名乗る(父の親実(ちかざね)は鑑相(あきすけ)に改名)。義鑑死後はその子義鎮(宗麟)に仕えるが、その義鎮の命によって天文22年(1553年、父・鑑相や叔父・宗像鑑久らが滅ぼされてしまい、これを受けて鑑実が一萬田家の家督を相続する。このようなことがありながらも義鎮(宗麟)を恨むことなく引き続き仕え、天文19年(1550年)の菊池義武討伐や弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に功績があり、武名を挙げた(この頃に橋爪氏を継承する)。永禄11年(1568年)に叔父・高橋鑑種が謀反を起こしたときも、宗麟に味方し鑑種討伐に当たる。永禄12年(1569年)毛利軍と戦った多々良浜の戦いでは嫡男の一萬田鎮実、そして朽網鑑康と共に、乃美宗勝、桂元重を撃退した。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、殿軍を務めている。それらの功績により、加判衆となって宗麟の側近として活躍する。天正14年(1586年)からの島津氏との戦い(豊薩合戦)でも、一萬田氏一族を含む諸将の寝返りが続出する中で、大友氏方に留まり軍功を挙げた。このように生涯を軍陣で過ごすこと多かった。しかし、天正16年(1588年)、突如として大友義統により自害を命じられて自刃。先の戦いで一族から謀反人(一族の一萬田紹伝らが島津氏に寝返ったとされる)が出て、その連座で巻き込まれたためだという。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%90%AC%E7%94%B0%E9%91%91%E5%AE%9F
七里賴周 Shichiri Yorichika(1517年-1576年?)賴周本來是本願寺的青侍(下級武士),因本願寺顯如認為其頗有前途於是當上了坊官,受命領導加賀一向一揆。織田信長與石山開戰後,受顯如之命指揮加賀的一向門徒同織田軍反復爭鬥,因而被一向門徒稱作「加州大將」。天正二年(1574年),越前國的前波吉繼(桂田長俊)施行暴政,國人與民眾的不滿達到了極點。於是在富田長繁的調動下民眾掀起了針對長俊的土一揆,富田長繁自己出任大將帶兵包圍了長俊據守的一乘穀城並將其攻破,消滅了長俊。長繁接著又殺害了魚住景固。一揆眾對消滅並無敵意的魚住一族一事頗有微詞,決定與無謀的長繁劃清界限。於是一揆眾將長繁拉下大將寶座,籌劃著另尋他人做自己的領導人。這時賴周於眾人當中脫穎而出。究其原因是因為一揆眾中有相當數量的本願寺門徒,正是這些門徒推薦他出任大將。因而一揆由富田長繁領導的土一揆轉變為賴周領導的一向一揆。一揆眾將長繁及其同黨,土橋信鏡(朝倉景鏡),平泉寺等敵對勢力相繼消滅。之後,越前一國由本願寺派來的下間賴照進行支配,賴周也被納入賴照的指揮下。在二月中旬的時候,一向門徒上交了被消滅的國人眾黑阪一族的首級,賴周大怒,以「沒有我的命令就自作主張將武士殺害是違犯軍律」為由將其處死。然而,賴周藉著自己大權在握,上述處刑之類的蠻橫行為也屢見不鮮,因而在門徒當中人望盡失,門徒們彈劾賴周的彈劾信一直送到石山本願寺坊官下間賴廉之處。就這樣,發生了越前一向門徒與加賀一向門徒的分裂(一揆內一揆)。織田信長發覺了這一機會,在天正三年(1575年)8月,派大軍攻入越前。下間賴照與賴周兩人在門徒中毫無聲望,完全無法進行指揮,被打得大敗。賴照被殺死在逃亡過程中,賴周則逃亡到了加賀。次年,賴周將加賀司令之位交與下間賴純,然而一揆據點之一的加賀松任城主鏑木賴信萌生叛意將其殺害,此為一說。另一說賴周敗給織田軍撤退過程中被殺。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=12#postid-283 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
三刀屋久扶 Mitoya Hisasuke(生年不詳—1591年)三刀屋氏の本姓は諏訪部氏と伝わっており、清和源氏満快流信濃源氏の一族とされている。初代・諏訪部幸扶(ゆきすけ)の子孫が出雲国飯石郡三刀屋郷にて地頭を務め、そこから「三刀屋」を名乗ったのが始まりとされている。三刀屋氏は出雲国に入ると、塩冶氏、山名氏、京極氏と従い、応仁の乱では出雲国守護・京極持清に従っている。享禄元年(1528年)、父・頼扶より家督を継承。はじめ尼子氏に惣侍衆として仕え、禄は三刀屋本領6,785石を領した。天文9年(1540年)、主君・尼子晴久に従って安芸国の毛利元就の拠る吉田郡山城攻めに参加するも、翌天文10年(1541年)に大内氏家臣・陶隆房の援軍に敗れ、晴久は出雲国へと撤退する。この大敗北に三刀屋氏は宍道氏(宍道隆慶)・三沢氏などと共に大内氏側に寝返るが、天文12年(1543年)、今度は大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻め落とせず、これにより久扶は他の出雲国人衆とともに尼子氏へと帰参した。その後、晴久は出雲国内の家臣統制に力注ぎ、家臣達に偏諱を与えており、久扶も弘治3年(1557年)に偏諱を受け、これが名前の「久」の字に繋がっている。久扶はしばらくは尼子氏に仕え、永禄元年(1558年)の忍原崩れでは毛利氏に大勝するなどしたが、永禄5年(1562年)、山吹城主本城常光が毛利氏に服属すると、同様に三沢為清・赤穴盛清らと共にこれに従った。居城・三刀屋城は毛利氏にとって重要な兵站拠点であったため、久扶はここをよく守り、永禄6年(1563年)には攻め寄せてきた尼子氏家臣の立原久綱を地王峠にて敗走させている。後に白鹿城攻め・第二次月山富田城攻めに参加、三沢為清・米原綱寛らとともに小早川隆景の傘下に入り、菅谷口の攻めの先鋒となっている。その後、月山富田城にておいて尼子氏は降伏する。永禄12年(1569年)、山中幸盛らが尼子勝久を擁立し尼子再興軍を挙兵すると、尼子旧臣は続々と参加し久扶もこれに呼応しようとしたが、旧臣からこれまでの忠節のない行動から拒絶された。そのため、久扶は毛利家中に留まり吉川元春に従い私部城などで交戦、天正6年(1578年)の上月城の戦いに参加し尼子再興軍を滅ぼした。なお、久扶はこの頃に毛利輝元への忠誠を誓った起誓文を提出しているものの、軍役を拒否することもあり、独立した権限を持っていたようである。天正14年(1586年)、毛利氏に従って小倉城の戦いに参加。肥後国人一揆を鎮圧するため、子である孝扶と共に出陣している。しかし、天正16年(1588年)に毛利輝元らが上洛した際に久扶も同行し、その際に徳川家康と面会したことで、主君・輝元から嫌疑を受け本領を没収され追放された。その後は京に上り、天正19年(1591年)に四日市村にて死去した。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%89%B6
三善一守 Miyoshi Kazumori(1547年-1615年)越中国池田城(小浦山城)主。松原斉安とも。本姓三善氏。父は小浦光康。石見守を名乗る。子に松原一二。『松原氏系譜』によれば、祖は鎌倉幕府問注所執事三善康信の末葉、石見守朝宗が、応安年間に備後国から越中国に入り氷見池田村の小浦山に城を築き居住したという。桃井直常討伐による恩賞として地頭職を得たものであろう。ただし、これらの所伝は仮冒で、越中の古代氏族射水臣氏出身の三善為康の子孫であろうとの説もある。一守は朝宗より七代の孫で、父光康は能登畠山氏に仕えて戦功があったという。朝光の時代々居住してきた地名をとって小浦と改姓したという。永禄10年(1567年)、父光康の没後に家督を継ぐ。天正4年(1576年)、上杉謙信に臣従し、子内匠を人質として差し出した。長沢光国の与力として働く。謙信の死後、越中の上杉勢力が衰退すると、織田方に靡き、父子で佐々成政に仕える。天正13年、成政が豊臣秀吉に降りると成政に従い肥後国に移る。天正15年の成政の没後、越後の堀秀政に仕える。堀家改易後浪人し、文禄二年能登国羽咋郡飯山に移住し、姓を松原と改め、斉安と号して隠棲した。元和元年(1615年)に死亡。子松原内匠一二は慶長16年に加賀藩前田家に300石で仕え、大坂の役の際利常に従って青屋口で首一つを討ち取る功をあげ、1600石を知行した。子孫は加賀藩士として続いた。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%A6%E4%B8%80%E5%AE%88
三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?)三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7