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荒木村重 Araki Murashige(1535年-1586年)荒木義村的長子、妻為池田長正之女、北河原三河守之女、だし;幼名十二郎、號「道薰」、罵名「道糞」。村重最初為攝津三守護之一池田勝政的家臣,迎娶池田長正女兒。後來池田知正(池田長正之子)受到三好三人眾的影響下發動叛變,村重乘機控制池田家。元龜四年(1573年)隨三好氏衰落,信長上洛之後,經細川藤孝介紹,成為信長屬下,作為信長攝津攻略的主將,數年間消滅池田、和田、伊丹三守護的勢力,成為攝津國主。元龜元年(1570年)開始,信長與攝津石山本願寺一向宗勢力進行了十年的石山戰爭,村重作為最前線的大將參戰。天正六年(1578年)正月,織田信長在安土城舉辦茶會時,家中重臣只有12人有資格參加,村重列名其中,與秀吉、光秀等同列。在織田政權中與細川藤孝、明智光秀並稱為三大文化人,可謂文武雙全。同年,經過多年廝殺,頑強的一向宗徒令信長大感頭疼,於是采取封鎖本願寺的饑餓戰術,終於迫使一向宗和談,村重代表信長與本願寺進行談判,但和談失敗,被信長降級至羽柴秀吉麾下,而村重看到一向宗徒餓殍遍地的慘狀,於情不忍,就贈送100石左右的大米,結果傳到信長那裡,被懷疑有通敵行為,從此遭到疏遠,而村重對於信長的殘忍也感到厭惡。同年9月,村重舉起叛旗,秀吉遣黑田孝高做使節,但反遭拘禁,雙方在有岡城交戰,戰事膠著一年,最後因部下中川清秀、高山右近等人變節令戰勢逆轉。翌年9月2日、村重拋下妻小帶著茶具「小鼓」獨自逃離有岡城前往尼崎城,然後逃往花隈城(花隈城之戰)持續被織田軍狙擊,最終前往毛利氏的領地保命。而村重的36名家臣於五條河原被信長處刑。天正十年(1582年)6月,發生本能寺之變,信長亡故,村重返回堺居住。接著豐臣秀吉控制京畿一帶,村重以荒木道薰之名進入大阪再次成為茶人,與千利休等人為親交。起初妻子見他逃亡時,嘲諷為「道糞」,而秀吉批准村重尉名為「道薰」。村重擁有銘器「荒木高麗」,作為茶人度過下半生,在許多次茶會的記錄裡都可以看到茶人「道薰」的名字,天正十四年(1586年)5月4日,在堺逝世,年52歲。出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D 出處#2 http://baike.baidu.com/view/954501.htm
山内一豊 Yamauchi Kazutoyo(1545年-1605年)岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。景隆が織田信長に逆らって出奔したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと考えられるが、秀吉への仕官を天正2年頃とする説もある。元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。なお、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。天正4年(1576年)の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名しており、この頃までには秀吉の直臣となっていたことが確認されている。天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2,000石を領した。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談がある。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられて、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜城主として2万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した。織田信雄の改易に伴って再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられた。この頃から大名としての行動が見られ、掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下の諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出した。文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、この頃に秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹を命じられ、長康は中村一氏に預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されている。秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破った。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり、余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要な役職を主に外来の家臣で固めたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆を影武者として共に現地を視察したと言う。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行った。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任された。慶長10年(1605年)、高知城にて病死した。享年60。法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。現在、高知城には(右上の写真にある)一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
原虎胤 Hara Toratane(1497年-1564年)原友胤之子,受武田信虎偏諱「虎」字,名為虎胤,別名虎種、號清岩,渾名鬼美濃、夜叉美濃,位列武田五名臣之一。原氏為下總國千葉一族一門,父親友胤為千葉當主千葉勝胤(千葉昌胤之父)的重臣;永正十四年(1517年),友胤的居城小弓城,被足利義明與上總真里谷信清的支援下所奪,友胤父子逃難到甲斐國投靠武田信虎,成為武田氏家臣。父親友胤投靠信虎之後屢建功績,虎胤也受武田信虎賜予「虎」字,開始活耀於足輕隊的一將。大永元年(1521年),虎胤於甲斐飯田河原戰中,擊敗今川軍的福島正成(北條綱成的實父,但有異說)而獲得功績。天文十年(1541年),信虎遭到其子武田信玄追放,和其他被新登用的家臣如板垣信方等國人眾不同,虎胤與信虎關係非常良好;在信濃得知信虎被流消息後急忙返回甲斐,向板垣信方和甘利虎泰猛烈抗議。之後虎胤轉為效力信玄,由於與小笠原氏交戰表現活躍,被任命為平瀨城城主,受到信玄的重用。天文二十二年(1553年)因為日蓮宗信徒(法華宗派系)與淨土宗信徒的紛爭,虎胤為法華宗的信徒,當時信玄希望虎胤能改為淨土宗,但虎胤不肯,因而離開甲斐到相模依附北條氏達四年之多。翌年,經過「善德寺會談」之後,甲相駿三國同盟,虎胤於弘治三年(1557年)再次成為武田氏家臣。在歸回之際,北條氏康對虎胤的離去相當惋惜。永祿二年(1559年)信玄出家剃髮,虎胤一同剃髮,號清岩。同年,虎胤於信濃割ヶ嶽城攻略時,受到槍傷而離開前線作戰行列,直到永祿四年(1561年)攻下割ヶ嶽城及第四次川中島之戰,虎胤沒有再參與作戰。永祿七年(1564年)病死,年六十八歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E8%99%8E%E8%83%A4
北畠具教 Kitabatake Tomonori(1528年-1576年)北畠晴具的長子、母為細川高國之女、正室為六角定賴之女;法號天覺、不智齋。天文六年(1537年)敘從五位下侍從。此後在天文二十一年(1552年)敘參議、左中將,天文二十三年(1554年)敘從三位、權中納言等職,青年時期順利在朝廷中昇進。天文二十二年(1553年)父親隱居之後繼任家督之位。弘治元年(1555年)奉父親之命同支配伊勢國安濃郡一帶的長野氏作戰,永祿元年(1558年)將次子具藤送給長野氏當養嗣子,成功達成雙方的和睦並使其勢力擴大。永祿六年(1563年)將家督之位讓給長子具房隱居,但仍掌握實權。永祿十一年(1568年)織田信長開始進攻伊勢,將神戶氏、長野工藤氏等伊勢中北部國人眾置於其支配之下。信長將北畠氏視為其上洛的障礙,因此在永祿十二年(1569年)開始進攻北畠氏。北畠軍與織田軍實力相差懸殊,且具教的弟弟木造具政倒戈織田,在如此惡劣的情況下具教死守大河內城(今三重縣松阪市)達50餘日,最終有條件地開城投降。其條件是讓信長的次子茶筅丸(織田信雄)成為北畠具房的養嗣子,同時具教將自己的女兒雪姬嫁給織田信雄(大河內城之戰)。此後具教在元龜元年(1570年)5月出家,法號天覺,後改不智齋,隱居於三瀨谷(今三重縣多氣郡大台町)。天正四年(1576年)11月25日,織田信長與織田信雄指使北畠氏的舊臣長野左京亮、加留左京進等人襲擊具教,具教同兒子德松丸、龜松丸以及大橋長時、松田之信、上杉賴義等家臣一起被殺害,年四十九歲。同時長野具藤等與北畠氏相關的主要人物在信雄的居城田丸城中被殺害,大名北畠氏的地位為織田氏所取代(三瀨之變)。具教的首級被加留左京進的家臣伊東重內運出去,芝山秀時、大宮多氣丸等人聞變趕上將其奪回,秀時的父親芝山秀定將其葬於御所尾山。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E6%95%99
淺井長政 Azai Nagamasa(1545年-1573年)淺井久政的長子、母為井口經元之女・小野殿、正室為平井定武之女、繼室為織田信秀之女.織田市、側室為八重之方;幼名猿夜叉丸,通称備前守,別名新九郎,受六角義賢偏諱「賢」字,名為賢政,後改名為長政。父親久政為長政迎娶六角家家臣平井定武之女做正室,而當時剛元服的長政也拜領六角義賢名中的「賢」字,名為「淺井賢政」。這件事造成長政本人與淺井家臣方面許多不滿,認為娶六角家家臣之女做少主夫人,如同淺井家成為六角家的從屬國。讓懷念祖父淺井亮政時代顯赫戰功的家臣團將希望寄託於年少的長政。永祿三年(1560年),長政與家臣一同罷黜父親久政,命他隱居到琵琶湖上的竹生島(後經母親斡旋,將久政接回小谷城),並且與平井夫人離婚,將她送回六角家。父親久政被迫退位及讓出家督後,長政便成為淺井家當主。他將平井夫人送回六角家,與六角家的關係撇清與斷絕,淺井家宣布正式獨立,淺井家與六角家戰爭就此展開。六角義賢與平井定武對長政退婚行為非常憤慨,永祿三年(1560年)4月,六角義賢從觀音寺城發兵攻打並包圍佐和山城。淺井家先發動攻擊展開野良田合戰,淺井家以一萬兵力打敗六角家兩萬五,長政統帥的初陣得到首勝。永祿四年(1561年)6月20日,改名為長政,改名為長政的意義,有一說為效仿織田信長在桶狹間之戰大破今川義元上洛軍。另一說源至於武運長久一詞。取其父「久」之上的「長」,有決心成為超越父親的大將。六角家結合美濃國齋藤家入侵淺井家領土,一度攻略淺井家領土佐和山城,但最後佐和山城仍被淺井家奪回。永祿六年(1563年)以後,六角家發生內亂,長政趁著這千載難逢的機會,壯大淺井家的勢力,將淺井家的勢力原本只有北近江擴展至部分南近江,使淺井家成為近江之統治者。永祿十年(1567年),織田信長放逐齋藤龍興,得到美濃國並入主稻葉山城。有感於西邊鄰近的近江國淺井家勢力強盛,此時開始注意長政的信長便將自己的妹妹阿市嫁給長政做為妻子,希望透過淺井家協助上洛。當時與織田家同盟前長政提出「不可以與朝倉家為敵」作為締結同盟的條件,藉由這樣的姻親友好關係,在永祿十一年(1568年)時,淺井家與織田家聯合消滅宿敵南近江六角家,並且支援義兄信長與幕府將軍足利義昭上京。在祖父淺井亮政時代,亮政在六角定賴(六角義賢之父)的攻勢下,守不住小谷城,一度逃到越前國的朝倉家尋求支援,後來在第十代朝倉家督朝倉孝景同意並讓朝倉家的家老重臣朝倉宗滴率兵支援淺井家擊敗六角軍,並與淺井亮政斬殺許多六角家的重臣,護送亮政回到北近江的小谷城之後,於大永五年(1525年)在當主朝倉孝景同意之下派遣同盟外交使者朝倉宗滴榦旋締結朝倉淺井同盟,直到元龜四年(1573年)。越前朝倉家避免與南近江的六角家有直接衝突關係,為富國強兵而必須要有緩衝勢力,而緩衝勢力就建築在北近江的淺井家。淺井家與朝倉家世代交好,兩家同盟直達48年之久。永祿十三年(1570年),幕府將軍足利義昭認為織田信長對他的將軍權力多所壓抑,便聯合淺井、朝倉、武田、石山本願寺、三好三人眾等大名結合成第一次信長包圍網,討伐信長。武田信玄響應將軍足利義昭的邀請率大軍西上,成為眾大名標靶的信長首先討伐無視上洛命令的越前朝倉家,朝倉家不敵,便希望淺井家發派援軍。父親久政名義上已隱居,實質上握有強大發言力。久政以為,「在我們淺井家快滅亡時,得到朝倉家的援軍得以生存下去,怎能夠忘記朝倉家的恩情呢」,強烈要求支援朝倉。老臣派代表以海赤雨三將為首贊成久政的建議,但在淺井家臣也有少數家臣選擇支持織田家,如遠藤直經、宮部繼潤、阿閉貞征等人便對朝倉義景的優柔寡斷感到厭惡。在眾多舊臣施加的壓力下,最後長政為不讓家族分裂決定討伐信長,正式加入信長包圍網。淺井家出兵偷襲織田信長,但是在金崎撤退戰時被信長成功逃脫淺井與朝倉家的夾攻。信長與三河的德川家康一起出兵與朝倉家和淺井家兩家合軍在近江國的姊川河原進行交戰,史稱「姊川之戰」,淺井朝倉聯軍戰敗。元龜二年(1571年),淺井家重臣先鋒猛將、佐和山城城主磯野員昌因受到羽柴秀吉的離間使得長政心生疑懼拒絕佐和山城的兵糧支援,磯野員昌無奈投降於織田家,淺井家從此勢力逐漸衰弱至滅亡。元龜四年(1573年),武田軍與德川軍在三方原展開戰鬥,史稱三方原之戰。武田軍戰勝德川軍之後不久,武田信玄強行上洛,但在上洛途中病逝,信長包圍網失去重要的一環之後,使得織田信長得以逐一擊破各個反信長包圍網之大名。九月十六日,朝倉家滅亡之後,隨即開始對淺井家進行圍城攻略戰,史稱小谷城之戰。九月二十三日,織田軍攻入小谷城,父親久政在京極丸切腹自盡。九月二十六日,長政囑託妻子織田市帶著三個女兒回到織田家,送她們出城後在小谷城裡的本丸切腹,年二十八歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%BA%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年)父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
本願寺顯如 Honganji Kennyo(1543年-1592年)本願寺証如的長子、母為庭田重親之女.顯能尼、妻為三條公賴之女.如春尼;幼名茶茶、法名顯如、諱光佐,院號信樂院。本願寺教派,係由親鸞上人所創建的淨土真宗的總本山,因其法門修行容易,且允許娶妻葷食,易為武將、商人、百姓所接受,教團之勢力發展迅速;本願寺總寺設於經濟、軍事要衝之大阪石山,因本願寺派與一向宗門徒關係密切,具有驅使各地一向宗門徒的影響力,且從將軍管領細川晴元攻打石山失利以後,本願寺派的軍力讓人印象深刻及恐懼,故有許多諸侯大名、公卿等紛紛與本願寺派維持良好關係。顯如之妻為左大臣三條公賴之女,而武田信玄之妻亦為三條公賴之女,兩人具有姻親關係,經常互相協助及利用彼此的實力。顯如可資動員之武力足以與任何戰國大名相匹敵,可謂戰國時代最強大的宗教武裝力量。顯如原本係與三好三人眾交好而擁護足利義榮的一派,但織田信長擁護足利義昭上京,以軍事實力掌握近畿地區實權,信長向本願寺要求捐款重建將軍所用的京都二條御所並退出石山,本願寺內部多有持反對之強硬意見者,顯如不願立刻與信長反目,乃捐獻五千貫作為資金,但並未從石山退去。隨著朝倉義景、淺井長政與信長展開激戰,將軍義昭與信長之關係也開始勢如水火,顯如感到時機成熟,趁信長進剿三好三人眾之際,顯如向所有門徒宣告:「信長乃佛敵」!石山本願寺的鐘聲自此敲響,結合各地一向宗勢力與信長對抗,顯如並與義昭聯繫,要求武田信玄上京,成立「第一次信長包圍網」,信玄組成三萬大軍西上,在「三方原會戰」擊敗信長的盟友德川家康,但信玄病逝,顯如立刻與信長談判休戰,義昭卻渾然未覺,繼續作戰,最後遭到放逐,義景、長政等人亦遭到信長擊敗而亡。不久,越前發生一向一揆峰起的事件,顯如乃派遣七里賴周、下間賴照等人前往主持,以石山、長島、越前三處為犄角再次舉兵對抗織田信長,但遭到織田軍分別擊破,長島、越前都遭到信長殲滅,武田信玄之子武田勝賴又在「長篠之戰」被信長、德川家康聯合軍擊敗,顯如再度與信長議和。逃往西國接受毛利輝元庇護的義昭,與顯如及上杉謙信聯繫,以毛利、上杉及本願寺派為主,組成「第二次信長包圍網」,顯如決定第三次舉兵,織田信長命明智光秀為主將率軍從三方面包圍石山,但遭到本願寺派逆襲一度落敗,信長親自披甲上陣,以三千兵馬於「天王寺會戰」突破本願寺的兵力封鎖,再次構築包圍攻勢。毛利家乃派遣由乃美宗勝等人率領的水軍支援本願寺,在「第一次木津川口之戰」擊敗織田水軍,順利運補彈藥、糧草,使本願寺得以繼續與織田軍進行膠著抗戰,然而,信長命九鬼嘉隆組成鐵甲船,在「第二次木津川口之戰」擊敗毛利水軍,本願寺派陷入斷糧危機,而作為靠山的謙信也在春日山城病逝,顯如認為繼續抵抗信長並無勝算,乃透過朝廷向信長第三次提議休戰,經信長同意後,顯如從石山退去前往紀伊隱居,將門主讓給長子本願寺教如,惟教如為強硬派,堅決不退,織田軍發動總攻擊佔據石山本願寺總寺,放火連燒三天三夜才將本願寺夷為平地。顯如與織田信長進行長達十年之久的「石山會戰」,堪稱是信長生涯最難纏的對手,但雙方居然能三戰三和,也是信長生涯唯一僅見的特例,由此可以看出顯如高明的政治手腕。顯如後來與繼承信長霸業的豐臣秀吉和解,希望在京都復興本願寺,但尚未達成目的便於文祿元年(1592年)去世。死後,長子本願寺教如與三子准如對於應由何人繼承第十二世門主發生內部爭執,最後,於慶長七年(1602年),由德川家康捐獻土地讓教如一派獨立,成立東本願寺,准如一派則為西本願寺,本願寺就此分裂迄今,在現在的京都併存著東西本願寺。作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401623-%5B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%B0%E5%9C%8B%E6%99%82%E4%BB%A3%5D%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E9%A1%AF%E5%A6%82%E5%B0%8F%E5%82%B3
遠藤直經 Endo Naotsune(1531年-1570年)遠藤氏為鎌倉武士出身,在鎌倉時代因為領有近江而下向,以須川山一帶須川城為居城。與赤尾氏等,在淺井氏成為京極氏被官以來為淺井氏譜代家臣。遠藤氏被允許持有小谷城下的清水谷為居館,直經自身在兒時已經守備在居城。以後直經為淺井長政傅役,在長政幼時擔任相談役,受到長政深厚信賴,長政在決定進攻六角氏前亦曾與直經和淺井玄蕃商議。直經與伊賀忍者亦有關係,負責進行淺井家的諜報活動。而關於選擇伊賀而非在近江甲賀時,因甲賀為敵方六角氏支配,與六角氏有很深關係,所以與遠離近江的伊賀眾建立關係。直經在很早就發現織田信長的才能,於永祿十一年(1568年)淺井家和織田家還是同盟關係時,被任命為訪問近江佐和山城的信長接待役。直經向淺井長政進言暗殺信長,不過長政因為此舉違反信義而沒有接受,直經亦不能違背主君命令,最後暗殺計劃不了了之。在朝倉氏和織田氏之間的關係惡化時,淺井氏家中出現重視朝倉舊緣、織田婚姻關係的討論,在決定之際,直經強硬地主張支持織田側。直經對朝倉家當主朝倉義景優柔寡斷的對應感到相當厭惡,在接待織田信長時對信長的內政外交手腕有相當高的評價。但結果淺井長政採用父親淺井久政等人投向朝倉側的意見,於是直經再沒進言。元龜元年(1570年),在姉川之戰中,淺井軍大敗之際,直經舉起己方武將三田村左衛門首級假裝為織田武將,密謀暗殺織田信長。但在織田信長本陣數十米前,被竹中重矩(竹中重治之弟,兄弟以前離開美濃齋藤氏後,曾作客到淺井家,見過直經。)識破,直經被捕斬首,年40歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E7%9B%B4%E7%B6%93
豐臣秀吉 Toyotomi Hideyoshi(1537年-1598年)木下彌右衛門之子,母為阿仲(大政所),繼父竹阿彌,猶父近衛前久,正室為淺野長勝養女.寧寧(高台院),側室為淺井長政長女.茶茶(淀殿)、成田氏長之女.甲斐姬;幼名日吉丸,初名藤吉郎,後改名秀吉,取丹羽長秀和柴田勝家各一字,改姓羽柴;認近衛前久為猶父,以其本家藤原氏為姓、後受天皇賜姓豐臣;別名元吉,綽號猴子。由於秀吉的出身並非顯貴,有關於他早期的文獻記載十分有限,僅大概知道他少年時曾在尾張、三河、駿河等地方活動,父親曾在尾張地方國人眾蜂須賀氏(蜂須賀正利)麾下當雇傭性質的雜兵,修理兵器鍛造,七歲喪父造,八歲母改嫁。入光明寺當小沙彌(被喚為禿鼠的原因),曾經在遠江國引馬城支城頭陀寺城成為松下之綱的部下,『太閤記』記載秀吉元服時由松下之綱為烏帽子親並命名中村秀吉,但離開原因不明。後從遠房姨媽伊都父親清兵衛的鍛冶屋拿針販賣。天文二十三年(1554年)以小者的身分成為了織田信長的家僕,被信長喚為猿或禿鼠(禿げ鼠),地位在足輕與「中間」之下,作為小者中的「草履取」的等級,若隨信長上陣,「中間」可以持脅差或木刀,小者只能幫主公提武具或充當「人夫」。後來因幫信長拿草鞋時將草鞋放進懷裡暖鞋獲得信長的歡心。天文二十四年(1555年)陪同信長側室生駒吉乃回娘家小折城的生駒屋敷,經吉乃介紹認識生駒氏親戚蜂須賀正勝與川並眾。永祿四年(1561年)與淺野長勝的養女.寧寧結婚,從妻姓,更名為木下秀吉。永祿十三年(1570年)信長準備進攻朝倉義景的中途,在金崎遭到盟友淺井長政攻擊背後,此戰秀吉為殿後軍一員,保護信長安全撤離(金崎之戰)。元龜元年(1570年)姊川之役後,秀吉擔任此役奪取的近江國橫山城城代,並以此領地可動員的兵力一千人及在地情報,天正元年(1573年)在小谷城之戰從防禦土壘最矮(約一米五)的中段京極丸,切斷淺井父子倆的防守區域,因此信長擊敗了淺井長政,長政自盡,淺井的舊屬歸織田家所有,以此功秀吉支配(領有一小部分600貫約2400石-3000石)北近江三郡十二萬石成為城主,將根據地移至近江國今濱城,利用小谷城的土石建材增建今濱城後易名為長濱城。後賜苗字「羽柴」。他同時也招募家臣,在封為城主前他底下的家臣就是蜂須賀正勝(與力)、重治(寄騎小姓)、前野長康(小六若黨),尚未元服的福島正則、加藤清正,一門眾的淺野長政、羽柴秀長。而大谷吉繼、石田三成等家臣,皆是出身於近江地侍小姓,增田長盛則出身尾張國中島郡增田村,原為信長家臣後改寄騎羽柴秀吉。天正四年(1576年)支援北陸柴田勝家對抗上杉軍,秀吉因為和勝家戰略上意見不一而擅自撤離,結果勝家在手取川之戰中大敗,使勝家和信長有所不滿。在織田信忠的指揮下,秀吉參與攻擊松永久秀的戰鬥。天正五年(1577年)赤松則房、別所長治、小寺政職臣從信長之下,秀吉受命攻略中國地方,任播磨國國主,根據城為姬路城,受命後不久別所長治及荒木村重背叛織田信長,秀吉討伐,天正七年(1579年)使宇喜多氏完全臣服於織田氏,天正八年(1580年)別所長治和荒木村重戰敗,別所被捕,切腹自盡;荒木逃離,全家被信長誅殺。秀吉開始與毛利氏及山名氏交戰,攻下了鳥取城、三木城、高松城等重要據點,秀吉在此發揮了長時間包圍戰城池戰法——斷糧(干殺し),使敵軍提早開城投降。天正十年(1582年)明智光秀於支援秀吉出兵毛利氏途中,發動背叛兵變,攻佔京都並夜襲投宿在本能寺的織田信長,是為本能寺之變,信長焚毀本能寺,屍骨無獲,其長子織田信忠於二條御所戰敗後切腹自盡。當時羽柴秀吉正親自率兵包圍備中國的高松城。由於黑田官兵衛(黑田孝高)用計水攻高松城,而使光秀向毛利氏報信的信使隔天在被水包圍的城下被羽柴軍所抓,所以秀吉在事變隔天便得知消息。秀吉向毛利氏隱瞞信長身亡的消息,透過毛利家外交僧安國寺惠瓊與城主清水宗治斡旋。之後,在毛利氏大老小早川隆景主導下,他迅速與毛利氏議和,並率兵在五日內「強行軍」約200公里返京,並隨即與明智軍展開決戰,這次行軍史稱「中國大撤退(中國大返し)」,行動之迅速大大震撼了京師的明智軍。回師之時,秀吉以信長之名為號召,成功收納流竄在各地的信長舊屬,於山崎之戰,大敗準備不及的明智光秀,最終明智光秀逃走時被獵殺落難武士的村民殺死,秀吉乘機控制京都一帶,不過無法阻止織田氏內部出現派系分裂。主要分裂為柴田勝家、織田信雄、織田信孝以及羽柴秀吉等派系。秀吉在清洲城重臣在清洲會議上得到多數織田族人與家臣支持,擁立尚在襁褓的織田信忠長男三法師(織田秀信)繼任家督。但為此得罪了同屬織田重臣的柴田勝家,導致其擁立信長三子織田信孝對抗秀吉。隔年,雙方決裂,秀吉先迫使信孝投降,後來羽柴與柴田軍在賤岳決戰,最初勝家佔盡優勢,中川清秀遭到突擊陣亡,但是秀吉率兵衝上前線使形勢急變,最終秀吉取得勝利。隨著羽柴軍包圍北之庄城,勝家與妻子阿市自殺,此外織田家另一重臣瀧川一益則被迫蟄居,織田信孝不久被殺,丹羽長秀和池田恆興歸服,大致上平定了織田家內反秀吉勢力。天正十一年(1583年),秀吉在石山本願寺的舊址上建大阪城,當時到訪的大友宗麟將它稱為「戰國無雙的城」,但城堡在防禦上亦有缺點,在大阪冬之陣中,真田信繁進行了修築加強防禦。天正十二年(1584年),原先與秀吉合作的信長次子織田信雄聯合德川家康反對秀吉,羽柴軍便與兩人展開史稱小牧.長久手之戰的戰事。此戰之初擁有兵力優勢的羽柴軍直撲德川領地,但途中卻遭到德川軍伏擊,有「鬼武藏」之稱的大將森長可與池田恆興戰死,秀吉其後撤兵,改為攻擊美濃國織田信雄,信雄投降,迫使雙方談和,德川軍與羽柴軍達成和戰協議。天正十三年(1585年),秀吉派遣秀長、小早川隆景等將領攻打剛統一四國的長宗我部氏,利用兵力的差距迫使其歸降並減封至只剩土佐一國。此外秀吉派遣藤堂高虎為首的部隊,平定了雜賀眾,首領鈴木重意被斬首處死。此外,秀吉派重兵攻打越中國佐佐成政,開戰派大軍包圍,成政不戰而降。秀吉原本覬覦征夷大將軍一職,不過流浪的前將軍足利義昭拒絕以秀吉為猶子,不入源氏籍,便無法成為將軍。於是秀吉轉目標為關白(需入攝家),當任的關白二條昭實也拒絕了秀吉要求。天正十三年(1585年)秀吉找上公家的前關白近衛前久幫忙,讓近衛前久認自己為猶子(以本家藤原氏為姓),迫二條昭實讓位,就任關白。天正十四年(1586年),為了攏絡德川家康使其成為自己的助力,秀吉將其妹旭姬(四十二歲)嫁與德川家康(四十三歲),並為家康正室,甚至將自己的母親大政所送回家康身邊成為人質,德川家康此後臣從秀吉。同年,受天皇賜姓豐臣並就任太政大臣(平民出身者第一人),確立了政權。天正十四年(1586年),九州大名大友宗麟向秀吉請求支援,天正十五年(1587年)派遣秀長率領大軍攻擊島津氏的支城,使義久投降,戰後島津氏被分配到薩摩、大隅、日向三國。平定九州後遷入聚樂第,同年十月於北野天滿宮舉辦北野大茶會,邀請農民與公卿貴族,據說兒時玩伴石川五右衛門也有參加。天正十六年(1588年)秀吉開始實行刀狩令,加強了兵農分離的政策。天正十五年(1587年),禁止基督教。天正十七年(1589年)北條氏的家臣豬俁邦憲奪取了真田昌幸管轄下名胡桃城,導致秀吉下令全日本大名討伐北條氏,不服從者將會受到失去領土的處分。次年3月1日秀吉率20萬大軍向北條氏攻擊,攻陷北條各個支城下逐漸向小田原城包圍,7月北條氏政、氏直父子開城投降。氏政、氏照兩兄弟切腹自盡,氏直被流放到高野山,戰後秀吉為各大名分封新的領土。天正十九年(1591年)奧州大名「獨眼龍」伊達政宗自動來請降,日本三島(本州、四國、九州)到此統一。天正十九年(1591年),將關白之位讓給外甥豐臣秀次,自稱太閤。天正十九年(1591年)秀吉進行他人生中最後一場日本國內戰爭,派遣了蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成聯同東北地方大名平定九戶政實之亂。同年,秀吉命令茶人千利休切腹自盡,詳細原因不明。一說是利休於寺廟擺設自己的雕像激怒到秀吉;另有一說是由於利休過於向秀吉進諫(例如反對秀吉意欲向大明出兵)以致。文祿元年(1592年)秀吉率兵20萬侵略朝鮮,史稱「文祿之役」(朝鮮方面稱為壬辰倭亂)。兵員以西日本諸大名為主。戰爭初期,久經沙場的日軍攻勢猛烈、勢如破竹,以極快的速度先後攻佔朝鮮王京漢城與陪都平壤,並迅速攻佔朝鮮境內大量主要城市,直趨明朝邊境。朝鮮宣祖馬上向明朝求救。秀吉於5月攻佔漢城後便研議要遷都北京,將北京周圍10「國」之地獻為御用,賜公卿以俸祿,賜其部下以10倍於原有的領地,甚至命豐臣秀次為大唐(中國)關白,日本關白由羽柴秀秋或宇喜多秀家擔任,朝鮮則交給羽柴秀勝或宇喜多秀家統治。明神宗派遣遼東總兵李如松率兵入援朝鮮。在明軍(約5萬)和朝鮮三道水師提督李舜臣等的反擊下,日軍攻勢遇阻。終於在文祿二年(1593年)日軍因遭逢損失,秀吉遂被迫與明朝和談。其實日方代表小西行長出身商人家庭,精於商業謀略,偽造秀吉降表與明朝議和,而明方使者沈惟敬本是市井無賴,就稱秀吉的目的是要求恢復雙邊貿易。雙方於是締結和約,日軍就此暫退釜山。文祿四年(1595年),秀吉將豐臣秀次流放到高野山,然後將秀次處死,其過程嚴酷出乎人們意料,秀次的一家連同侍女和孩子39人都被砍頭,之後屍首被拋荒不得埋葬。此外亦令秀次支持者切腹,包括前野長康等人。賜死的原因可能是當時輿論流傳著「殺生關白」(豐臣秀次的綽號)過去所發生的亂行,加上秀吉打算以年幼的次男秀賴作為家中的繼承人,因此秀次就成了眼中釘。文祿五年(1596年)九月,秀吉歡喜地迎接明朝使者,明、朝議和使來日,秀吉宴饗之。然宣讀國書,始知議和實為冊封,大明欲封秀吉為日本國王。秀吉方覺受騙,大怒道:「吾掌握日本,欲王則王,何待髯虜之封!且吾而為王,何以對天皇!」,並欲殺明朝使節,為旁人勸止,於是下令驅逐明朝使節。慶長二年(1597年)正月,秀吉再次遣兵入侵朝鮮,史稱「慶長之役」(朝鮮方面稱為「丁酉再亂」)。日軍盤據釜山,再進逼漢陽。然而明朝援軍(約8萬)加入戰鬥行列後,日軍攻勢再度受阻,被迫死守於海岸各倭城。慶長三年(1598年)8月18日,秀吉在伏見城突然逝世,年六十二歲。死前他亦已託付前田利家監視德川家康及輔佐豐臣秀賴。而入侵朝鮮半島的豐臣軍在接獲德川家康為首的五大老命令及以石田三成為首的五奉行安排下,向明朝隱瞞了秀吉的死訊,隨後與明朝議和並逐漸從朝鮮撤軍。可是這場戰役豐臣氏為首的軍隊損失巨大;大名元氣大傷,此役也埋下了德川家康日後成為征夷大將軍的一個重要伏因。而日本與朝鮮的關係,到慶長十二年(1607年)才恢復正常。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B0%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
伊達政宗 Date Masamune(1567年-1636年)伊達輝宗的長子、母為最上義守之女.義姬、正室為田村清顯之女.愛姬、側室為飯坂宗康之女.飯坂之局;幼名梵天丸、通稱藤次郎、渾名獨眼龍。右眼失明 政宗在年幼的時候由於罹患皰瘡(天花)失去右眼的視力,也因此後世皆稱之為獨眼龍。不過關於政宗右眼失明的原因,之後多採用「從樹上摔下來時眼球被樹枝刺下來,於是便把眼球吞進肚子」的說法。母親義姬在政宗右眼失明後,便覺得政宗的容貌十分的醜惡。因此義姬嫌棄政宗,轉而喜愛次子小次郎。之後義姬更有毒殺政宗的行動(該次暗殺行動後小次郎被政宗殺害),不過政宗卻說:「這件事與母親無關」。元龜三年(1572年),父親輝宗聘請臨濟宗的虎哉宗乙禪師為五歲的政宗的老師,天正三年(1575年),輝宗讓神職之子片倉小十郎(片倉景綱)擔任政宗的侍童。片倉景綱可以說是政宗最親近的人,側近中的側近,日後是政宗的得力軍師。天正五年(1577年)元服,取名與伊達家第九代當主,有中興之祖之稱的伊達政宗同名,足以見得輝宗期望政宗能振興伊達家。另外,原本政宗的名字預定是取第十五代將軍足利義昭的昭字,定名為昭宗。天正七年(1579年),在父親輝宗的安排下,政宗與同屬陸奧國大名,三春城城主田村清顯的獨生女,愛姬成婚(陸奧田村氏傳說乃古代遠征奧羽的坂上田村麻呂後代)。〔這樁聯姻在於相馬氏屢屢來犯時,相馬顯胤總是與嫡子盛胤從犯伊達家領地的東南邊領,同時又聯同其他大名侵略田村氏,故換句話說是兩家結盟對抗相馬等氏的政略婚姻。相馬顯胤是輝宗的祖父伊達稙宗的女婿,算是輝宗的姑丈。兩家自從天文之亂後一直交惡。(顯胤經常說:「我是伊達家的女婿,盛胤是稙宗大人生前鍾愛的孫子,憑什麼不讓我們成為伊達家臣?」)版圖擴充 天正九年(1581年),15歲的政宗由片倉景綱與伊達成實陪同初次領軍作戰(另有一說為天正十年,但大多作九年),政宗先下大森城,再破金津城,沒幾天後伊達軍又攻破丸森城與金山城。但兩家並未分出勝負。(伊達氏自此之後,東面戰線的主要交戰對手都是相馬氏,直至天正十八年(1590年),政宗與相馬氏一直處於交戰對立狀態。)天正十二年(1584年)父親輝宗有鑒於家內為未來繼承人的問題而分為兩派(政宗與小次郎,其中小次郎派為義姬幕後主腦),為停止家中分裂,輝宗決定讓政宗繼任家督的同時宣布退位。雖然政宗多次諫止,但在群臣的勸說後,18歲的政宗正式繼任為伊達家17代家督(「貞山公治家記錄」卷一)。政宗繼位後,決意向周邊的敵對大名交戰。第一步是迫立場反覆不定的大內氏投降,其當主大內定綱在蘆名的支持下拒絕政宗的威脅,於是政宗便大舉進攻大內定綱,並發生小手森城屠城的事件。深感危機的二本松義繼為求自保,終在天正十三年(1585年)前往拜見輝宗,但義繼突然發難脅持輝宗威迫伊達家讓步,政宗下令向義繼部隊射擊,結果是義繼和輝宗二人在鐵砲射擊下死亡,是為粟之巢之變。其後,政宗開始鎮壓叛變的大內定綱。同時在蘆名義廣、常陸的佐竹義重為首的奧羽南部大名,如岩城常隆、石川昭光,白川義親、相馬盛胤、二階堂盛義等反伊達的軍隊也開始向伊達家進攻,戰場從觀音堂轉戰到人取橋,慘烈的程度連指揮的政宗都投入一般的白刃戰鬥。儘管戰鬥經常呈現膠著,但是政宗聯絡北條氏派軍攻擊佐竹領,同時義重本營又收到反佐竹的江戶重通趁機入侵,故反伊達陣線因此一夜撤軍。政宗辛辛苦苦終於贏取是役的勝利。可是政宗也損失七十三歲的老部將鬼庭良直,他為保護伊達軍免於崩潰,於是殿後作戰,於人取橋附近奮戰而死。之後政宗又於天正十七年(1589年)在摺上原對抗(摺上原之戰),並先後將蘆名氏和二階堂氏消滅。經過摺上原等對周邊大名的戰爭後,伊達的勢力已經滲入整個會津及奧州,而政宗開創比父祖更大的伊達家版圖,當時領地的石高推定為120萬石左右。豐臣政權家臣時期 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵後北條氏小田原城,並下令伊達家派兵協助,但是因為在出兵前中欺騙秀吉,政宗遲遲還沒作出決定,幸而有片倉景綱的提醒下,部隊遲出發,秀吉曾打算將政宗處死,於是政宗將自己和其部隊全身白色裝束上陣,並且甘願受罰,以表示忠誠和謝罪,所以秀吉以杖代刀的方式來處罰政宗,並且寬恕政宗罪過;戰後由於出兵有功,所以伊達家能保持原有的領地,而失去會津一帶的領地。戰前,母親義姬因支持政宗之弟伊達小次郎政道而欲毒殺政宗,讓政道取而代之;之後小次郎被處死,義姬則在事件發生數年後離開伊達家,回到兄長山形國大名最上義光的山形城(原因不明)。天正十九年(1591年),協助蒲生氏鄉平定葛西大崎一揆,但是氏鄉則指政宗與一揆軍內通,於是政宗為此事再次上京解釋,證明該書物是偽造後,而秀吉則決定改封政宗至岩出山城58萬石(但米澤等地則被沒收,故是減遷)。天正二十年(1592年),受豐臣秀吉之命令派三千兵出征朝鮮,3月抵達征明(中國當時為明朝)之地名護屋,文祿四年(1595年)獲批准回日本。政宗沒有參與慶長之役。慶長四年(1599年)將嫡女五郎八姬與松平忠輝婚姻。自此就與德川家康有親近的關係。在關原之戰時支持東軍,雖然無法直接參與在關原的本戰,但是政宗在長谷堂城之戰接受最上義光的求援,派遣留守政景支援長谷堂城的戰況,使直江兼續無法攻下長谷堂城。仙台藩主 由於關原之戰所屬的德川軍取得勝利,因此政宗的領地得以保留。德川家康原定安排政宗成為100萬石大名,但是因為被揭發煽動和賀忠親引發岩崎一揆,只能由原來石高57萬增封為62萬的大名,成為仙台藩藩祖,隨後立即築起仙台城及城下町,當時仙台城仍為山城,在山下設下城下町,仍有統一天下之心(政宗死後被改建為平山城)。參與由德川對豐臣的大坂冬之陣及大坂夏之陣等著名戰鬥,在夏之陣的道明寺之戰於譽田與真田信繁部隊激戰,在天王寺·岡山之戰,曾經向我方神保相茂部隊自相殘殺以鐵炮部隊使之全滅,之後神保遺臣透過水野勝成喊冤,要求德川家要政宗需對事件作出解釋。但是最終幕府沒有對政宗的行軍作出任何懲罰。此外政治方面,更於慶長十八年(1613年)派遣家臣支倉常長到羅馬與教廷使節會面長達七年,成功在外國進行貿易。亦成功將仙台一帶成為經濟的重心。德川幕府成立後,曾多次任將軍的上京供奉。曾說「願早生二十年,成就如信長公霸業」,政宗雖有想要一統天下的志向,卻難逃生不逢時的厄運。寬永十三年(1636年),已隱居的政宗於江戶因食道癌病逝,年七十歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
島津義弘 Shimazu Yoshihiro(1535年-1619年)島津貴久的次子、母為入來院重聰之女・雪窗夫人、正室為北鄉忠孝之女;幼名又四郎,初名忠平,受將軍足利義昭偏諱「義」字,改名義珍,後改名為義弘,號惟新齋,渾名鬼石曼子。天文二十三年(1554年)岩劍城城主祁答院良重聯合入來院重嗣、蒲生範清、菱刈重豐反對島津氏。義弘跟隨父親貴久,在大隅國西部與聯軍作戰,擊敗他們。這也是義弘的初陣。弘治三年(1557年),參與對大隅大名蒲生氏的戰鬥中,第一次取得敵將首級,但這場戰鬥中義弘也因身中五箭而重傷。永祿三年(1560年)3月19日,豐州家的島津忠親由於無法抵擋日向國大名伊東義祐的頻繁進攻,向父親貴久求救。貴久讓義弘作忠親的養子,鎮守飫肥城。不過在永祿五年(1562年),貴久遭到肝付氏的猛烈進攻,被迫召回義弘,使養子協議成為一紙空文。島津氏幫助北原氏從伊東氏那裡奪回失去的領地。真幸院司北原兼幸有反叛北原氏的跡象,義弘便進入真幸院之地,從此以後,義弘以飯野城為自己的居城。永祿九年(1566年),父親貴久將家督之位讓給長子島津義久。此時,伊東義祐築造三之山城,計劃以此為據點攻打飯野城。義弘同兄義久、弟島津歲久一起,趁城未建好之時發動襲擊,但遭到伊東氏援軍的擊敗,義弘身負重傷,被迫撤退。元龜三年(1572年),在木崎原之戰中,義弘率領300名士兵從後奇襲大敗伊東軍。此戰中他勇猛非常,雖然島津氏方面傷亡極慘重,但也為島津氏的擴張奠定基礎。天正五年(1577年),義弘徹底將伊東氏勢力逐出日向,剷除島津氏的宿敵。而與伊東氏結盟的大友氏得知消息後,迅速派兵攻打日向。在耳川之戰中,義弘輔佐兄長島津義久,大破大友氏,乘勝遠征大友氏的根據地豐後。天正十三年(1585年),攻打八代城,肥後國守護代阿蘇氏投降。義弘多次代替兄長擔任總大將,立下赫赫戰功。天正十四年(1586年),再次攻打豐後,逐步蠶食大友氏的領地。此年,接受幕府將軍足利義昭的偏諱,改名「義珍」;翌年改名義弘。天正十五年(1587年),大友氏向豐臣秀吉求救,豐臣秀吉發動九州征伐。義弘與島津義久都主張對豐臣氏作戰。兄弟幾人利用擅長的「釣野伏」戰術(即誘敵深入),在戶次川之戰中,一度大破豐臣、大友聯軍,殺死長宗我部信親等人,為後來島津家投靠豐臣方面贏得不少實力籌碼。根白阪之戰中,義弘雖然一馬當先奮勇殺敵,試圖激勵士氣,但由於兵力上的劣勢而大敗。之後隨著島津家久在堅田合戰敗在山田宗昌的手下,義弘自身也攻不下志賀親次所守備的岡城,之後豐臣秀長率兵與大友軍合流,島津軍的戰況每況愈下,終於在五月八日(西曆6月13日),義久決定向秀吉投降,但義弘仍然堅持主戰。二十二日,義弘終於被義久說服,派兒子久保前往豐臣軍中作人質。義久剃髮出家並改名龍伯,由義弘繼承家督,但義久仍掌握實權。雖然島津氏被保全,但僅擁有薩摩和大隅兩國,以及日向國的諸縣、真幸院等地。力主和議的島津家臣伊集院忠棟受到秀吉的讚賞,在九州進行檢地。忠棟因此受到島津氏一門的敵視。天正十六年(1588年),義弘上洛,朝見豐臣秀吉。為以示恩寵,秀吉賜予島津義久「豐臣」之姓,義弘則被賜予「羽柴」之姓。此後,義弘參與豐臣軍的小田原征伐,滅亡北條氏。在日本統一之後,豐臣秀吉決定入侵朝鮮,慶長二年(1592年),秀吉發動侵略朝鮮的戰爭。義弘與侄兒島津豐久都參加這場戰爭。義弘的兵團隸屬於毛利勝信(毛利勝永之父)的第四軍團,負責進攻朝鮮的江原道。義弘所率的兵團人數為一萬人,是第四軍團中人數最多的兵團。不過,在召集出徵兵團之時,島津氏領地發生反對出兵朝鮮的梅北一揆事件,使得島津兵團渡海之日被迫推遲,此後秀吉不信任義弘,義弘被迫要在朝鮮戰場上立功來消除秀吉的疑慮。慶長二年(1597年)7月,漆川梁海戰中,義弘與藤堂高虎等部一起大敗朝鮮水軍,殺死朝鮮將領元均。8月參加南原城之戰。全州會議之後,義弘率兵團自忠清道扶餘郡北伐,經過井邑,直到全羅道的海南南下。此後自10月末起負責防守泗川。慶長三年(1598年)陰曆9月,在泗川之戰中擊退中國明朝軍董一元部的進攻。九月十九日到十月四日,明朝與朝鮮聯軍原本打算海陸包夾小西行長防守的日軍最左翼的順天城,經過近一個月的戰鬥之後聯軍攻城失敗,不但順天城未能攻下,其他兩路之兵皆被日軍擊敗。慶長三年(1598年)8月,太閤豐臣秀吉病死於京都伏見城;10月,執掌權力的德川家康等五大老決議撤兵,於是向在朝鮮的日本部隊下達命令準備撤退。11月,日軍以駐在蔚山的加藤清正軍團為首,開始分批撤退。此時明軍則分道進擊,由廣東南澳水師副總兵陳璘統率新任副總兵鄧子龍、遊擊馬文煥等部,以戰艦數百,分布於忠清、全羅、慶尚諸道海口預備截擊由海路撤退的日軍。原本小西行長與明軍將領劉綎達成共識,讓日軍安全撤軍而明軍則不追擊,於十一月十日準備撤出順天城,不料明軍出爾反爾,派出船隊從海上堵住日軍的退路。小西行長於是派人向在泗川城的義弘等人求救。於是義弘、宗義智、高橋統增、立花宗茂等日軍猛將在巨濟島集結,於十七日凌晨出發前往救援小西行長,而得知日軍即將援助小西行長,陳璘派鄧子龍偕同由李舜臣統率的朝鮮水師出擊。雙方船隊在露梁海上相遇,史稱「露梁海戰」。戰鬥一開始,義弘雖知道明朝聯軍社伏於觀音浦與南海島西北岸之間,但是為讓小西行長成功撤退,義弘假裝掉入明朝聯軍的埋伏以吸引最多可能的敵軍,於是選擇從海峽中間突破的戰術。島津部將樺山久高首先率領部隊突圍成功,島津軍使出勢弱之勢意圖吸引明朝聯軍追擊,鄧子龍眼見日軍就要突圍成功,趕忙追擊島津軍卻反而被島津軍的「釣野伏」所包圍,李舜臣見鄧子龍被島津軍包圍趕緊前來救援,卻被島津軍事先埋伏於船尾的鐵砲部隊奇襲,李舜臣身中數彈,氣絕身亡,根據朝鮮文獻記載:「砲賊伏於船尾向舜臣齊發,舜臣中丸,不省人事。」,明朝水師主將陳璘孤軍深入,被日軍船隊包圍差點被俘虜。在義弘的力戰下,日軍成功突破封鎖,並達成掩護小西行長撤退的目的後,從容撤離戰場並與日軍主力合流,駛向對馬回到九州的名護屋城。豐臣秀吉死後,島津氏一門對伊集院忠棟的不滿終於爆發。慶長四年(1599年),由於家督繼承權問題,義弘之子島津忠恆殺死忠棟。此後忠棟之子伊集院忠真發動庄內之亂,島津氏內部發生嚴重分裂,分為以島津義久為首的反豐臣派和以義弘為首的中立派,家臣集團也都分裂為兩派,互相鬥爭。義弘只得將女兒御下嫁給忠真,達成和睦。不過此後,義弘沒有本國島津軍的決定權。慶長五年(1600年),德川家康發動會津征伐,討伐上杉景勝。義弘接受家康的邀請,率1000人北上。伏見城被西軍圍攻時,但是伏見城城主鳥居元忠拒絕其進入伏見城,義弘一怒之下決定加入西軍。因為義弘的兵力較少,受到石田三成等西軍首腦的輕視,處於次要戰場上按兵不動。關原之戰前夕,義弘向石田三成提議夜襲東軍軍營,這個方案得到宇喜多秀家的支持,但石田三成沒有同意。在關原戰場中在西軍幾乎瓦解的時,義弘使用「捨奸」戰術,由正面突破東軍優勢兵力包圍,擊傷東軍追擊的井伊直政及松平忠吉還有本多忠勝、井伊直政等德川的重要武將。但是這也使義弘失去多名主要將領,例如是島津豐久以及長壽院盛淳。最終義弘從伊勢撤離回到薩摩。義弘的以三百兵力突破東軍十萬多人的包圍,引起全國的轟動。關原之戰後,島津氏非常擔心德川家康會前來討伐,全境進入戒備狀態。憤怒的家康命令九州大名黑田氏、加藤氏、鍋島氏合兵三萬討伐島津氏。但島津氏在關原之戰中並無重大兵力損失,仍保有一萬多的兵力。家康擔心九州的外樣大名因不滿而再度反叛,撤銷討伐島津的命令。島津義久便以純粹是義弘的私自行動為由,以近衛前久為中介,與家康交涉,成功保住領地。義弘辭去家督之位,由島津忠恆繼承家督。義弘辭去家督之位後,退往加治木城隱居,隨後剃髮出家,改名惟新齋。此後,島津氏由義弘、島津義久、島津忠恆(後改名家久)共同統治薩摩藩,但義弘、忠恆卻與義久互相掣肘,關係非常惡劣。慶長十年(1605年),義弘和忠恆計劃渡海進攻琉球,義久便提出強烈的反對。最終三方於慶長十四年(1609年)共同派出三千人入侵琉球。慶長十九年(1614年),死於加治木城,年八十五歳,法名為妙圓寺殿松齡自貞庵主。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
山中幸盛 Yamanaka Yukimori(1545年-1578年)山中滿幸的次子、母為立原綱重之女.なみ、養父龜井秀綱、正室為龜井秀綱之女;實名幸盛,幼名甚次郎,通稱鹿介,別名鹿之介、鹿之助、鹿助,渾名山陰の麒麟兒。尼子十勇士之一,以山中鹿之介之名廣為人知。幸盛の前半生は、確実な史料が殘っておらず不明な點が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲國富田莊(現在の島根県安來市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を參照。)。山中氏の家系も不明な點が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手把を立てた。16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに隨行し、因伯(因幡國と伯耆國。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り當主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。尼子氏の滅亡永祿5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲國へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大內氏を滅ぼし、防長(周防國と長門國)を新たに支配していた。また、永祿5年6月には石見國を勢力下に治め、中國地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、當主であった尼子晴久が永祿3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入國すると、尼子方の有力國人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永祿5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。永祿6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠點であった。9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大將とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退卻の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を擔當し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。永祿7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに參戦する。このとき、日本海側からの補給拠點である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆國の拠點確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆國の重要拠點の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆國は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。永祿8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麥を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川將員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川將員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滯在していた小河內幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多數の兵を討ち取った。永祿9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出來なかった。11月21日(1567年1月1日)、城內の兵糧が欠乏し將兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出來ないと判斷した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦國大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は隨従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため盡力することとなる。第一次尼子再興運動尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永祿9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬溫泉で傷を癒した後に順禮の姿をして東國へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北條氏(北條氏康)などの軍法をうかがい、越前國の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。永祿11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機會をうかがった。永祿12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機會をうかがっていた幸盛は、出雲國へ侵攻を開始する。このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領國であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回覆を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領內を攻められ、支援はままならなかったようである。6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後國もしくは但馬國から數百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、國內に潛伏していた舊臣らが続々と集結し、5日の內に3,000餘りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城內より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。しかし、石見國で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な狀態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲國內において16の城を攻略し、その勢力を6,000餘りにまで拡大させた。また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲國の有力國人を相次いで味方につけると、出雲國の一円を支配するまでになった。さらに、伯耆國においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡國との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寢返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆國全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。加えて10月11日(11月19日)、大內輝弘が大內家再興を目指して周防國山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領內の反亂により支配體制の危機を感じた元就は、反亂軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰著すると、10月25日頃に大內家再興軍の反亂を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大內家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大內輝弘の亂)。反亂を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。永祿13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲國へ入國すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反亂(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲國の拠點である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安來市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として殘り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麥薙ぎが行われるなど危険な狀態となるが、9月5日(10月4日)、安芸國で元就が重病に陥り、吉川元春を殘して毛利輝元・小早川隆景らの軍が國許へ帰還すると狀況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠點である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の國境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連攜を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐國の國人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲國における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直屬の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠點であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脫出して隠岐へ逃れている。同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脫出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。第二次尼子再興運動尾高城から脫出した幸盛は、海を渡って隠岐國へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬國に潛伏する。 そして、瀬戸內海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機會をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬國から因幡國へ攻め込み、桐山城を攻略して拠點とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡國を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計畫していたと思われる。このとき、因幡國の実質的な領主は、毛利方の國人・武田高信であった。高信は、去る永祿6年(1563年)に當時の因幡國主・山名豊數と爭って勝利を収めると、毛利氏と連攜をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。幸盛ら尼子再興軍は、豊數の弟で山名氏再起を目指す山名豊國を味方につけると、因幡國の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。鳥取城には山名豊國が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000餘りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。ところが11月上旬、山名豊國が、田公高次などの懐柔により毛利方に寢返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月餘りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて盡力することとなる。因幡國內で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前國の浦上氏、豊前國の大友氏などの反毛利勢力と連攜を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って體制の立て直しを図っていった。これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。天正3年5月(1575年7月)、但馬國の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡國の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠點をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡國から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節點に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡國へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠點はこの若桜鬼ヶ城の1城を殘すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多數の付城を築いて因幡から撤退する。ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡國において完全に孤立化する。さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡國から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。第三次尼子再興運動 - 幸盛の死因幡國より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面會した幸盛は、信長より「良き男」と稱され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに參加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに參加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の將・河合將監を一騎討ちで討ち取っている。10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠點である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠點として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の國境に位置し、この地域を治める上で重要な拠點であった。城番となった幸盛は、この區域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作國人の懐柔・調略を行っていく。天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の將・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦狀態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3萬以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1萬の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書寫山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。降伏の條件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中國合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B